名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
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考察
私も『成功者』という言葉が嫌いで、それは、20代のかなり拝金的な時代から既に、そういう心理的な傾向があったのを覚えている。『勝者』が生まれた瞬間に『敗者』が生まれる。こういう図式は間違っていると、半生のどこかで刷り込まれていたのだろう。あるいは、それを口にする人間がうつけであり、虚ろに見えたのも手伝った。(この人間が成功者のわけがない)という小さな認識が積もり積もっていったことも影響しているだろう。
私の周りには信頼できる人間が皆無であり、両親に宗教を強要されたことで、当然両親もその対象ではなかった。また、その反動で特定の宗教も当然持つことが出来なかった。だとしたら、『自分』を指針にするしか選択肢がないからそうしたのだが、しかしその『自分』が、『自分の欲望』のことだと短絡的に解釈していた時代は、衝動の成すがままに生き、自由奔放に振る舞って見せるが、その延長線上で自由を奪われる結果に直面することになってしまったのだ。
実に波乱万丈な半生を生き、ついに私は、『四聖』に数えられる、
孔子、
ブッダ、
キリスト、
彼らの言葉と向き合うまでに、心が整った。特にこの中のイエス・キリストだけは、私を長い間悩ませた人間の一人であり、彼と向き合うことは、私にとっては奇跡的なことなのである。私が強要されていたのは、クリスチャンになることだったからだ。私が彼らと向き合うことを決めたのは、単純に、彼らが『人間のトップ』に君臨するからだ。だから、死ぬまでの間に、彼らと向き合わずに死ぬのは、人生に悔いを残すと思った。彼らの言葉を聞き、人間が何であるかを内省することは、私の人生に甚大な影響を与えるだろうと、考えたのだ。
しかし私は、いざ彼らと向き合ってみると、彼らが『人間のトップ』ではないことを認識するようになった。私が彼らの言葉を通して教えられたのは、『人間にトップなどいない』ということだったのである。彼らの言葉はこのようにして、傾聴に値するものばかりだった。決して彼らを神格化した人間を通して聞くような、覇者であり、王であり、支配者であり、神であるかのような、そういう傲慢不遜な人間像は、彼らの言葉からは見ることは無かった。
以来私は、彼らを『人間のトップ』ではなく、『人間の知性の頂』と表現するようになった。私は彼らと向き合いさえすれば、もう人生に悔いなど何も残らないというような、それぐらい高い壁を登る、価値のある課題に取り組んだつもりであり、終わった頃には、ある種の境地に達観しているはずだと予想したが、ジェームズ・ディーンの言う通りだった。
私は内省を終えた後、別に頂点にはいなかった。それどころか、彼ら四聖も、人間の頂点ではなかった。というか、人間に頂点など存在しなかったのだ。目の前に広がっていたのは、ゴールのない階段だった。しかし、逆に言うとそれは、『生きている間、努力を重ねれば、どこまででも登ることが出来る』ことを意味していて、彼ら、知性の頂と向き合い内省したことで、そういう謙虚かつ高潔な心構えを見極められたことは、私の一生の財産になるだろう。私が今後の人生で、『もう上には行けない』と言った時点で、私の腐敗は始まっているのである。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』