名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
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考察
人間は、会話をしていく中で、その人が『どういう人なのか』という真実を知ることが出来るようになる。どういう時に喜び、どういう時に怒りを覚え、どういう時に悲しむか。そして、この人生をどういう指針を持って生きているのか。どこに向かって生きているのか。そういうことがわかるのは、『長い会話』をしてからようやくのことである。『多少の会話』ではダメだ。
そしてこれは、『夫婦』だけではなく、『家族』でも同じことなのである。私はまだ結婚をしていないので、夫婦について書くのは夫婦生活を最低でも30年は続けてからにしよう。今はまず、家族のことについて正直に、包み隠さず書く。家族との関係なら30年は経ったからだ。大丈夫。この言葉を言ったニーチェ自身も生涯独身で一生を終えた。ニーチェも私のように、自分の固い意志を決して曲げられない人間だったようだ。
『神は死んだ』
という彼の有名な言葉を誤解している人は多い。彼自身はキリストが嫌いだったわけではない。これは、『この世に神は存在せず、人間だけが存在しているのだ』という、ニーチェの『人々に対する応援の言葉』だった。
ニーチェが生きた時代において、人間の生活に大きな影響を及ぼしていたキリスト教の存在や価値観が人間の考え方や価値観を弱体化してしまったり、ドイツにも広がった産業革命によって生活が機械に囲まれるようになったことへの戸惑いや、強い反発からくるものと考えられている。
ニーチェは、『ルサンチマン(弱者の強者への嫉み)』の感情のせいで、人間が唯一無二の人生を台無しにすることを嘆いた。キリスト教もそうした人間のルサンチマンから始まったのだと。
自分の上に裕福な人や権力者がいて、自分たちにはこの人間関係、主従関係をどうすることもできない。だが、その人たちの上に、神がいると考えれば救いが見出せる。神がいれば必ずこの不公平な世の中を、公正に判断してくれるからだ。
そういうルサンチマンたる感情からこの世にキリスト教が生まれ、イエスを『主』として崇めるようになったのだと。
しかし、『自分以外の人間を『主』にするということは、つまり『主体性』を失うこと』を意味するわけだ。だからこそ人は弱体化してしまったのだと。ニーチェはそう考えたのである。
ニーチェは言った。
私は、クリスチャンになることを強要する両親の下に生まれた。そして、当然私はそれに反発して生きた。私の意志が、それを求めていないから『当然』なのだ。その意志をないがしろにして信仰を強要し続ける両親は、感受性豊かで自我がハッキリした私からすれば、まるで『殺人者』だった。私と彼らとの間には、深い深い、溝が出来てしまった。それが決定的な事実だ。
長い時間が経った。途中、父親の命も、その一生を終えた。しかしそれでも、まだまだ親と子の間にある半確執状態は続いた。それは互いに、自分の信仰を一向に変える姿勢を見せないからだった。
ニーチェはこうも言った。
この『呪い』さえかかっていなければ、私と両親の仲は良く、大人になって一緒に食事をすることも、旅行に行くことさえもあったかもしれない。だが、この呪いのせいで私はそれをすることは一生ないだろう。他の家庭を見て仲良く家族で団らんしている様子を見ると、私も精神未熟な時は、ニーチェが言ったようにこの宗教を呪いたくなる時が多々あった。
ヴォルテールはこう言い、
マザー・テレサは言った。
私自身、キリストの教えはとても好きで、特に、
など、どれも隙がない、的を射た真理であると確信している。はるか2,000年も前に説いたこの教えが今も尚燦燦と我々人間を照らし続ける。こういうことはめったにできることではない。彼自身はとても貴重な逸材である。
だが、ニーチェがこう言い、
プレヴォがこう言ったように、
『源泉』以外の人々の行動には、首をかしげるものばかりである。『何度も嫌だと主張したのに宗教を強要しつづけ、それが聞けないなら家から出ていけ』という愚かな教育を施した私の両親もまた、その『汚染された思想』の呪いを受けた、愚かな人間である。
ニーチェは色んな意味で、私と似た思想を持った人間だったと言っていいだろう。
『夫婦生活は長い会話である。』
そんな彼のこの言葉にも、私は強く共鳴するのである。『一方的な主張』は受けたが『会話』をしなかった私と両親は、夫婦で言ったら破綻し、『離婚』してしまったのである。
またこの『会話』だが、とあるシーンでは、私が無口である、と言う事実を短絡的に解釈した身内が、私が『言えない人』だと勘違いする事態が起きた。なぜ『言わないだけ』と考えることが出来なかったのか。人間はつくづく、テレパシーが使えないのだと悟った。人間同士が理解しあうのに『会話』ほど有効なものはないことを、私はよく知っている。
そこから更に年月が経った。ついには私が男のくせに、激昂する姿を見せることもあった。しかし、それが逆によかった。それによって身内の、私がどういう人間であるかという実態の把握を容易にさせたのだ。
以前と比べると、今ではとても『スムーズ』になった。こうした円滑なリズムは、『長い会話』をしてこなければ、到底見出すことが出来なかった。無論、途中で『会話』を諦めていても、同じことだった。しかしもちろんまだまだ『会話』の途中である。これは、我々が生きている限り一生続くのだ。
一つだけ言えるのは、年月が経ち、『会話』を交わすたびに私の居心地は良くなっているということである。周りから見るとここにスムーズさはなく、あるいは私が異物のように見えるかもしれないが、それで全然いい。『異物』であることは私にとって、誇りである。
松下幸之助は言った。
それはつまり、ニーチェが人々に強くそう願ったように、私がこの自分のこの唯一無二の命を最大限に躍動させ、悔いのない人生を生きようと主体性を燃やしている証拠だからである。
『会話』とは、『自分がどんな人間かという真実を相手に伝える目的』を果たすには、うってつけの手段である。そして同時に『相手がどんな人間かという真実を理解する』にも、うってつけの手段である。
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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