あがり症気味で、人にあがっていると思われたくないんだけど、どうすればいい?
極端な考え方が極めて重要です。『他人などどうだっていい』と考えれば終わりです。
先生
ハニワくん
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シンプルに考えよう
この記事では、少し
な視点から書くことになる。
- あがっていると思われたくない
- 人からよく思われたいと期待する
- 視線が怖い
そう考えるということは、そこに『他人』がいるということだ。他人がいなければ、『思われたくない』という発想にはならない。ましてやそこに、自分の好きな人、好意を抱いている人、仲良くしない人などがいれば、尚のことそういう発想になるわけだ。
この問題は簡単で、
だ。『別に他人からどう評価されたって関係ない』と考えて終わり。もし、『それが出来たら苦労しないよ』というのであれば、もう一生治らないと考えていいだろう。
- でも、
- だって、
- もし、
ではない。
だ。
マリリン・モンローは言った。
また、スペインの作家、セルバンテスは言った。
他にもたくさんある。
『人の評価に依存することの愚かさを知れ。依存しないなら強い。』
全てはこの記事に書いた。彼ら、彼女らは別に、『気にするべき対象ではない』のだ。これが決定的な事実であり、そこに焦点を合わせることが出来ればもうこの話は終わりなのである。
先生
ハニワくん
- 『他人などどうだっていい』と考えれば終わり。
人生は一度きり
わかるだろうか。この世に、サラリーマンとそうじゃない人がいるという現実が。サラリーマンというのは、給料をもらって雇われる、社員のことだ。そして、そうした人にお金を出す、経営者がいるのだ。そしてその経営者の中には
わけだ。
残念ながら、『あがっていると思われたくない』等というような他人の目を意識した考え方でいる以上、サラリーマンから抜け出すことはできない。なぜなら、
からだ。
その割合が、実にこの世にいるサラリーマンの数と近いのである。つまり、並大抵の覚悟、あるいは蔓延している常識にそった発想をしているようでは、その『大勢の側』から移動することはできないということになるのだ。
もし、『別にサラリーマンでいいよ』というのであれば、もう話は終わりだ。そして、あがり症の話も終わりだ。大きな考え方の転換(パラダイム転換)が出来ないのであれば、またやる気がないのであれば、どうして人間の人格を大きく変えることが出来るだろうか。人間は、まず第一に決定的な事実、つまり真理を理解し、それを受け入れることから全てが始まるのである。
SBIホールディングス社長の北尾吉孝氏は、『海賊と呼ばれた男』の主人公として脚光を浴びた出光興産の創業者、出光佐三(いでみつさぞう)について、こう語った。
『戦後は外国のメジャー石油会社と組んだカルテル側から徹底的に攻撃され、たいへんな苦戦を強いられることになる。周囲は全て敵ばかり、そんな状況でも弱音を吐かず、信念を貫き通し、ついに世間の支持を勝ち取ることに成功したのである。
そして、その過程で佐三は、何が起こっても動揺したりぐらついたりしないという意味の『恒心』を得た。それは苦難を乗り越えたからこそ自分のものにすることができたのだ。
(中略)
恒心を得るなら、まずは
- 『人はいつか必ず死ぬ』
- 『人生は一度きり』
という二大真理を頭に叩き込んでおくこと。すると、惜陰(時間を惜しむ)という気持ちが自然とわいてくるようになるだろう。そうすれば、状況がどうであろうと、いまここで全力投球する以外ないという心構えに自然となってくる。
先生
ハニワくん
実際、私の部下が吃音症をベースに、あがり症やうつ病、ADHDにも似た症状をたくさん抱えているが、彼の吃音症は、8年という時間が経っても、未だに治らない。
それは、彼がその8年間、うじうじうじうじしつづけ、問題を先延ばしにしつづけ、『あわよくば』と誤魔化し、生き長らえる選択肢を取り続け、ツケを溜めつづけ、一向に、
である。
そして、後半になって掃除を強制的にやらせ、その部屋の写真を撮らせ、一日でも誤魔化したら大変な制裁を食らわせるとか、そのようながんじがらめの規制をかけて、はじめて少しずつ状態は緩和されてきた。本も丸一冊読破することが出来た。
だが、それも私が強制的にやらせたからだ。やらないと後がない、借金にもなる、という状態を作り上げたからだ。彼自身が主体的にやったのではない。
しかし、『あがり症は成功体験の積み重ねによって克服することが出来る』の記事に書いた様に、それらの成功体験によって少しずつ彼は主体的になっていく可能性はあるだろう。だが、 がわかるだろうか。
ここまではっきりしていたら、私などは逆に発想を変えられる。つまりこういうことだ。ドイツの小説家、ジャン・パウルは言った。
先生
ハニワくん
- 経営者の中にはかつてサラリーマンだった人がいる。
- 人間は、まず第一に決定的な事実、つまり真理を理解し、それを受け入れることから全てが始まる。
- 結局は主体的になれなければ人生を大きく変えることができない。
小手先の対策ではない。インサイド・アウトだ
あがり症の本を読むと、様々な『小手先の対策』が書いてある。
- 親指を引っ張る
- お守りを持つ
- 背筋を伸ばす
- 深呼吸をする
- 視線を逸らす
- 縄跳びをする
だが、私の部下は吃音が出るとき自分のこぶしをぎゅっと握り締めても一向に治らないし、私の隣に住んでいる
の人間は、もう20年以上、夜の8時に奇声を上げながら縄跳びをしている。
つまり、それぞれが、
を、私は痛いほどよく知っているのだ。
私がそれらのテクニックを『小手先の対策』と言って揶揄し、『並々ならない覚悟を最初に持て』というのには、理由があるのだ。
先生
ハニワくん
私の両親はクリスチャンだ。
は、当然の如く意見が割れるだろう。だが、彼らは私がクリスチャンにならない意志を見せると、まるで『この家の子ではない』という態度を取り、事実、
というあまりにも愚かな発言を、つい3年ほど前にも言われたばかりだ。
人間は、本当に家族なのだろうか。そしてそのような人間を育てる宗教という存在は、本当に正しい存在なのだろうか。
一つだけ言えるのは、私の父親はクリスチャンのまま死んで、私の母親も、このまま一生それを貫くだろう。そして、かつて『私はやめられない!』と私に言い捨てたように、クリスチャンであることを変えるつもりはないだろう。だからこそ、今日にいたるまで彼女は、クリスチャンであり続けるのだ。
私も残されたたった一人の親が、信仰を奪われることで衰弱死してしまうのであれば、それにすがってでも生きていってほしいと願う心もある。
人が、自分の人生を大きく変えようと思ったら、
。私は、それを身をもって知っているのだ。だから、あがり症あろうがうつ病だろうが、私が言いたいのは、 ということなのだ。それをしない以上は、一生、文字通り死ぬまで、自分の人生を大きく変えることはできない。
追記:『他人がこわい あがり症・内気・社会恐怖の心理学』(紀伊国屋書店)211Pには、こう書いてあった。
そこでまず大切になってくるのは、本人が素直な気持ちになるのを妨げるあらゆる障害を取り除くことである。つまり、『みんな多かれ少なかれこういうものだから』、『これは生まれつきの性格だから変えることはできない』などの固定観念を捨てること、そして、医学的な治療を受けることへの恐怖心や羞恥心をなくすこと。
この言葉は、まさしく私が言いたいこととピタリと同じことである。つまりこういうことだ。
全てはこの記事に書いた。
先生
ハニワくん
- 『小手先の対策』ではなく、根幹に目を向けよ。
- 『結局、すべては本人次第である。つまり、その人自身が『現状から抜け出したい』、『変わりたい』と望んでいるかどうかが重要なポイント。