自分がうつ病かどうかってどうやって判断するの?
色々ありますが、例えば、自分をうつと認めないことは、うつ病である証拠かもしれません。
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うつ病の根幹にある『自分の思い通りにしようとする意識』 – Inquiry. |
『自分だけはうつにならない』と思うのは勝手だ。だが… – Inquiry. |
私の母親は、うつ病ではない。なぜなら、『私はうつ病だ』という発言をしたことを一度も見たことがないからである。つまり、
のだ。だから私はそう言った。しかし、
である。
彼女はクリスチャンだ。そして、ここに対する執着心がすごい。『信仰心』ではない。
だ。私が彼女にこの言葉を使うのは理由がある。とてもここには書ききれない、長い長い話だから省略するが、彼女はそれに、『依存』している。
wikipedia『依存症』の異常な執着にはこうある。
第一の否認〜
「自分は大丈夫!」
「少し多めに買い物をしても、返せないほどの借金があるわけではない」
「タバコ吸っていても、自分は今まで癌になっていない」
「マリファナは害が少ないから、やっても大丈夫」
など、
する。「最近はパチンコに行く回数が減ったから大丈夫」などと、周囲の者すら「第一の否認」をすることもある。
つまり依存症の人間は、『自分が依存症であるという事実を決して認めない』どころか、自分の正当化に躍起になる特徴を持っているわけだ。
これはピタリ、私の母親そのものである。
そして、
と言うと、母は淡々と、感情的な声でこう言った。
これはもう、彼女にあるのが『愛情』などではなく、『信仰への忠誠心』でもなく、『
』であることが露呈した瞬間である。
そして彼女は、その後の私の非行を止められなかった。
私はそう思い、行くところまで行ったのである。
もし、彼女がこの家に信仰を持ちこんでいなければ、そしてそれを私に強要していなければ、私の家族は、
だろう。だが、今はそれが出来ない。私は、それをしたいとは思わない。最悪の時期から10数年経った今でも、私は彼女らが食事の前に捧げる『神への祈り』を聞くと、反吐が出そうになる。これは、トラウマだから仕方がないことだ。
なぜ彼女はこうも頑なに信仰に依存しているのだろうか。なぜ、キリスト教なのだろうか。仏教、イスラム教、ヒンズー教、道教、この世には様々な信仰があって、たくさんの信者がいる。自分がキリスト教徒であることを主張すれば、他の信仰者との間に溝が出来ることに、何の違和感も持たないのだろうか。
『持てない』のだ。余裕がないから。そして、依存体質である弱き人間には限界があり、許容範囲は狭い。従って、『
』ということなのである。
私の母親は、うつ病ではない。なぜなら、『私はうつ病だ』という発言をしたことを一度も見たことがないからである。だが、本当に彼女はうつ病ではないのだろうか。弱いから信仰を支えにして生きているのだ。もしかしたら彼女が自分の弱さを認め、非を認められる人間であれば、状況は大きく変わっていたのかもしれない。
について、考えてみてもらいたい。
ニーチェはこう言い、
マルクスは言った。