いつも人の顔色ばかりうかがっているから、疲れてしまう。このままじゃうつ病になるかな?
人の期待に応えることを意識し過ぎるとうつになります。自分らしい人生を生きましょう。
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人の期待に応えることを意識し過ぎるとうつになる。
と併せて考えていきたい。
真面目で完璧主義な人ほど人の期待に応えようと思うわけだ。人に対して常に気を配り、それは相手の受け取り次第で『有難い事』にも『おせっかい』にもなるわけだが、しかし、本人は目の前で間違いなく(こうした方が良い)ことが浮かぶからこそ、それを遂行しただけで、知っているのに知らないふりをしてやり過ごすよりは、自分も気持ちがいいし、相手の為になるから、それをやる。
しかしそういう人は、人生を生きていると常に気を張っていなければならず、休憩を取ることを意識的に行わなければ、神経がすり減り、心身が疲弊し、いつか倒れてしまうかもしれない。
私は中学生の頃、英語のテストで99.5点を取った。そのテストを親に見せると、
と言った。その時の私の目には、両親が二人でこちらをヘラヘラと見て、ほくそ笑んでいる様に見えた。
いつまで経っても、何をしてもお前は我々の要求を充たすことはない、愚かで未熟な人間なんだよ
そう言っているように見えた。そして続けてこう言った。
私の大好きなバスケットボールの活動も、彼らによっては『無駄な時間』だというのだ。実は私はその時はまだ、
へ行くことを、完全に拒否はしていなかった。
なぜなら、それをすると親と対立することになるからだ。親を悲しませることになるからだ。
ことは、間違いのない事実だった。
しかし、私は
そしてそれから20年経った今でも違うし、これからも一生違う。仏教徒でもムスリムでもないし、ヒンズー教徒でもないのだ。私は親へ、配慮していた。育ててもらっているという負い目も、純粋な愛情もあった。しかし、それをいいことに両親は私に対する一方的な強要や、要求をやめることはなかった。
私がその99.5点の話を、20年経っても覚えているということは、私の中でよほど強烈な印象だったのだろう。
一体お前らは、いつになったら俺を認めるんだ。まさか、クリスチャンになるまで、こうした嫌がらせは続くのか。これからもこいつらを喜ばせる為、納得させるためにバスケをやめたり、好きなことを諦めたり、意志を捻じ曲げたりして、生きていかなければならないのか。だとしたら俺は、『
形』だ。俺は、操り人形ではない。人間だ。
私は期待に応えたかった。だから我慢して配慮をしてきた。しかし、それをいいことにやりたい放題にやるのが人間というものだ。下手に出れば調子に乗り、力をちらつかせれば臆病になる。人間というものは、そういうものなのだ。
私は、うつにはならなかった。だが確かにあの頃、私の心にあったのはどんよりとした曇り空だった。私は、うつではなく、不良になった。それが私が取った、自己防衛だった。