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四人の教師
人として生きていていずれ死ぬ運命なのに、この四人と向き合わないまま死んでいいのだろうか?
孔子、キリスト、ブッダ、ソクラテス。生涯、無宗教で生きると決めている私が29歳のとき、彼らを通して内省をしようと決意した理由は、シンプルに、そういう疑問を抱いたからに他なりません。このたった一度の人生を『悔いのない人生』にするためには、避けて通れないと思ったのです。
両親にクリスチャンであることを強く望まれ(愛され)、そして強要され(愛され)た私には、どうしても腑に落ちないことがありました。それは、一つの信仰を持つことで、その他の信仰を持つ人間との間に隔たりが出来ることの違和感、そして『強要される信仰』への違和感でした。
それは本当に『在るべく姿』なのか? …私はそうは思わなかった。こういう排他的かつ正当化された考え方の根幹にはあるのは、『人間本位な都合』のような気がしてならなかったのです。
長い年月をかけて、多くの失敗をし、少しばかりの成功をし、数えきれない葛藤をし、『真の愛』が何かを考え抜き、そしてようやく彼ら『四聖』と向き合う心が整い、『知層』を積み上げていくと、次第に、やはり幼少期に抱いた私のその疑問が、とても純粋で芯を捉えていたことを知り、やがてこう確信しました。
…私が『違和感』を覚えていたのは信仰そのものではなく、人間だったのだと。
- 4-2:人間には責任があり、真理には責任がない
- 6-1:地球をどこから見るか
ちなみに後で知ったが、釈迦も29歳で旅に出て、35歳でブッダとなった。四聖や偉人と向き合った年齢が、彼が悟りを求めて旅に出た時期と一致したことは、私にとってとても心強かった。
四聖とは
『四聖(よんせい、しせい、ししょう)』とは、儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の四名の歴史的賢人のことである。
孔子( Confucius.)
儒教の始祖。中国の思想家。また儒教は『孔孟教』(孔子と孟子の教え)とも言われ、孔子の次に重要な孟子という人物がいる。
ソクラテス(Socrates.)
古代ギリシャの哲学者。ソクラテスと言えば『自分の無知を知っている人こそ、知性があると言える。』ということを説いた『無知の知』が有名。
ブッダ(Buddha.)
仏教の開祖。仏教とは、読んで字の如く『ブッダの教え』であり、『ブッダ(仏)になる為の道のり』を指示したものでもあるという。曇りなき眼で内を観た者は皆ブッダになれるのだ。
イエス・キリスト(Jesus Christ.)
ドイツの哲学者カール・ヤスパースは、『偉大な哲学者たち』の第一巻をこの四人にあてており、彼らを『人間の基準を与えた人々』とみなしている。紀元前に生まれた彼らが、どれだけの人間に影響を与えているかを確認したければ、軽く周囲を見渡すだけで十分理解することだろう。
四聖の共通点
四聖にはこういう共通点がある。
- 親の職業を継がなかったこと
- 伝統的なしきたりや体制を改革しようとしたこと
- 人一倍の努力家であったこと
- 確固とした信念を持ちそれを貫いたこと
- 見据えた的の規模が大きすぎて周囲の理解が追いつかなかったこと
群を抜きすぎていて、文字通り『群』にいる人間達の理解が追いつかなかった。
孔子は、今でこそ中国を代表する大学者や聖人とされているが、同時代人の多くからは、出来もしないことをしようとしている身の程知らずや物好き扱いされていた(憲門第十四-四十)。ソクラテスとキリストは、無実の罪なのに冤罪を着せられ処刑されている。ブッダも、バラモン教(現ヒンズー教)のカースト制度を否定したことで、バラモン教司祭の強い反感を買い、嫌がらせをされていたのである。
参考文献『四人の教師』、『超訳 ブッダの言葉』、『論語の教え』
ゲーテは言った。
人間とはそういうものだ。大勢の意見が『黒』でまとまっているとき、たった一人の人間が『白』と言えば、たとえそれが真実であっても『白』の方を隠蔽し、それを主張する人間を異端児扱いする。その方が『楽』だし、そうすることで、自分たちの居心地が脅かされないと考えるからだ。
『人の評価に依存することの愚かさを知れ。依存しないなら強い。』
しかし、その『人間』の規模を超越して人生を生き貫いた。それこそが彼ら四聖の真骨頂なのである。
四聖の違和感
確かに彼らのことを現代人が見ると、多くの違和感を得るところはある。
ソクラテスの場合はこうだ。
デルフォイの神殿にあった神(アポロン神)に巫女を通し、
巫女
と尋ねると、
アポロン神
と巫女を通してアポロン神の信託が告げられた。これを聞いたときの我々の率直な感想はこうだ。
ブッダの場合はこうだ。
『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。
宮殿で、若き王子シッダールタはこの世のすべての楽しみを満喫していた。仏伝によれば、遊女はあらゆる肉体の快楽を惜しみなく与え、香りの良いお風呂を用意し、王子が特に好んだ入念なマッサージを施した。ちょうど17歳の頃、自ら従妹のヤショーダラー王女と結婚した。また習慣に従い、ハーレムを設けた。王子は肉体の快楽も贅沢も拒絶しなかった。13年間、気前よく与えられる快楽の極致を味わいつくした。乱痴気騒ぎを控えることもなかった。王子が仏法を求めるためにすべてを捨てることを決めたのも、まさにお祭り騒ぎの番の翌日であった。
これを聞いたときの我々の率直な感想はこうだ。
キリストの場合はこうだ。
9.11を経て、宗教についての疑問を爆発させた、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。
イスラエルの人々が安息日に1人の男が荒野で薪を集めているのを見つけた。彼らはこの男をつかまえ、どう扱うべきか神に尋ねた。ことの次第がわかると、神はその日、生半可な処置で終わらせるような気分になかった。
『主はモーセに言われた。その男は必ず殺さなければならない。全会衆は宿営の外で彼を石で撃ち殺さなければならない。そこで、全会衆は男を宿営の外に連れ出し、男を石で撃ち、彼は死んだ』。
これを受け、人々はこう思うだろう。
これは『聖書』の話でキリストの言葉ではないが、聖書=キリストの言葉だととらえている人は多く、聖書=キリストの教えであると信じている人も多い。孔子に関してはそう多くはないが、やはり細かく見ると、
これは理解しかねるな…
として違和感を覚えるところはある。だが、そもそも彼らは2,000年以上前の人で、孔子、ソクラテス、ブッダに関しては2,500年も前である。数が多いから麻痺するが、この500年という時間も圧倒的な時間であり、これだけの時間があれば、情報が歪曲することは当然と考えられる。また、情報の歪曲だけではなく、文化もガラッと変わるだろう。そういうことを踏まえて考慮すると、違和感は薄れていくことになる。
また、人というのは『その時代と環境に蔓延しているもの』に影響されるものである。例えばブッダはまず、すでに蔓延していたバラモン教に首を傾げ、それ以上のものを求めた。輪廻やカースト制度に疑問を覚え、その『負の連鎖』は断ち切れるはずだと考えた。その乱痴気騒ぎも、王子の身分であれば誰もがそういう扱いを受けた。それが当たり前の常識として蔓延していたのだ。
それに関してはキリストも同じだ。ユダヤ教がそこに蔓延していて、それよりも良い教えを広めようとした。ユダヤ人であり、律法さえ守っていれば何をしてもいい、という文化がまかり通っていて、イエスは(それではいけない)と思って改革をしようとした。『ユダヤ人だけが救われる』という偏った考え方を『更新』しようとして、ある種の革命を起こそうとした。
ソクラテスは、急に『アポロン神がいるのだ!』と叫んだのではなく、元々そういう神話はそこに蔓延していた。若い男と仲良くしていたのも、最初からそこに『妻以外の同性と仲良くする』考え方が蔓延、あるいは推奨されていた。孔子も自分が生きた中国という国を強く意識し、政治に関して強い興味を持ち、より良い社会を作っていくべきだと信念を燃やし、また、若い時に親を失ったことが、儒教で親を大事にするべきだと強く説く理由になった。
例えば現代を生きる人々は、世界でいつテロが起きるか不安を抱えている。核爆弾についてもそうだ。そのような強烈な出来事があると、人の心はそれでいっぱいになる。同じように、その時代、その環境に流れている空気、蔓延している概念、価値観、教えというものは、そこで生きる人に間違いなく影響を与えるものである。
例えば日本人は、『お化け』と『幽霊』に関して敏感である。『化け物』、『怪物』、『妖怪』、『怪獣』という概念も日本人独特のものである。したがって、子供のころ、特にお化けや幽霊をひどく怖がる傾向がある。夢で見たり、錯覚としてそれを見たような気がすることもある。だが、アメリカではそうではない。アメリカでは『ゴースト』を見る。『ゾンビ』はどうだ。『キョンシー』はどうだ。『ドラキュラ』は?これは普通に考えるとおかしい。人種が違うと見えるものが違ってくるのだろうか。いや違う。ただ我々は、その時代、その環境に蔓延しているものに影響を受けやすいだけなのだ。
例えばイエスは『悪魔祓い』をしていたが、そういう行為も今考えると変である。しかし、当時はそれが一般的によく行われていた。ユダヤ人が病気を神の審判もしくは悪魔の仕業の顕れだと見ていたからである。いまだに世界のどこかから『魔女狩り』、『悪魔祓い』、『生贄』、『誘拐結婚』、『呪い』等々の怪しげな話が聞こえてくるが、今の世界でもまだ残っているのだから、今から2,000年も前になれば、それは今以上に不思議なことがたくさんあったはずである。
例えば『虫歯』は、歯に穴が開いたところに、何か歯に穴をあける不思議な力を仮想したり、ときには悪霊などの仕業だろうと考えていた。それに対し、アメリカ人のミラーが、ドイツのロベルト・コッホ(1843~1910年)の研究所にいて、結核やコレラのように、何かのバイ菌が虫歯をつくるのだろうと、 口腔中のいろいろな菌を調べ、『化学細菌説』という理論を出したのが、虫歯に対する最初の学説である。
『歯医者に虫歯は治せるか?』
こんなに最近まで悪魔がどうとかいう話が蔓延していたわけだから、2,000年、2,500年も前の時代ということを考えたとき、彼らから得る違和感は薄れていく。つまり、そんなこと(蔓延していたもの)などはどうでもいいのだ。重要なのは『彼らの教えの本質』である。彼らは結局何を言いたくて、この世や人々に一体どう在ってほしかったのか、ということに目を向けるべきなのである。
例えばモーセの『安息日に働いたことに対する制裁』の話に対し、イエスはこう言っている。
イエス
これは素晴らしい教えだ。モーセなどはキリストよりも更に1,000年も前の人間。とにかくこのように、彼らが伝えたかったことを『エネルギー(熱意)』という感覚で受け取ったとき、彼らは決して『残酷かつ冷酷な人』ではなかったということを理解したいのである。遥か数千年も前の人間に、現代人と同じ感覚を求めるならば、たかだか親子の世代だけでジェネレーションギャップを感じているのはつじつまが合わない。
遥か昔のこの時代は、今よりもずっと犯罪行為が簡単に行われた。例えば現在ではそこら中に監視カメラがあり、スマホの普及によってその数は激増した。衛星カメラもあるし、法も整備され、警察もいるから、その目を忍んで罪を犯すしかない。しかしこの時代は違う。そんな中、率先して悪事を行う選択肢もあるのに、むしろその真逆の行為を行った。ここに注目し、それを評価するべきである。
それからブッダだが、彼はそういう贅沢三昧をした自分を戒めるかのように、29歳から35歳までの6年間、ありとあらゆる苦行をした。正直これは、肉体的に言えば刑務所よりも厳しい体験だ。それを自らの意志で自分に課したのだ。そう考えると、彼はとても自分に厳しく、模範的。普通はそのような贅沢な状況を捨てて自分にそういう仕打ちはできない。しかも、カースト制度のような身分差別が蔓延している中、王子という位を捨てるということは、当時からしたら考えられない。彼らにあるある種の違和感は、単なるジェネレーションギャップだ。自分たちが同じ時代、同じ環境にいたら、彼らの行動は何ら不思議ではないだろう。
教えの共通点
四聖の教えの共通点は、大きく分けて『2つ』ある。まず一つ目はこれだ。
真理を説いたこと
『真理』とは、『いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。』の意味。では、『神の信仰』を勧めるキリストはどう考えていたのだろうか。
イエスはブッダやソクラテス同様に、幻影に満ちて不確かな現世とは対照的な、究極の真理が存在すると固く信じていた。しかも、一人一人が少しでもこれに近づこうとするなら、到達できる真理である。
しかし、イエスはソクラテスとは違い、自分は論理的思考によって真理を見出した、とは主張せず、合理的な教えによって真理を伝授するつもりもない。またブッダとも異なり、長く内省的な修行を積んだ末に真理を見出したことも主張せず、瞑想という方法で真理が得られるとも考えていない。この点でイエスは他の師とは根本的に考え方が異なっている。
参考文献『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』
ソクラテスは、
『全てにおいて重要なのは、何よりも真理である。』
と言い、ブッダは、
『真理とは、生きる智慧である。従って、依存するものではない。』
と言い、キリストは真理のことを『神』と言い、
『神をあなたの主と仰ぎ、罪を悔い改めよ。』
と言っていて、 孔子は、
『人間たるもの、天命を知るべし。』
と言って、天に恥じないような利他の行動を仰いだ。それぞれで絶妙に『絶対的な存在(真理、神)』についての説き方が違うが、しかし一貫してやはり、『絶対的な存在(教え)がある』と言っているのだ。
ただブッダは『真理にすら依存するな』と言い、孔子は『神霊は尊崇すべきだが、深入りせずに一定の距離を保つのが知的な態度といえるだろうな』と言っていて、そうはいっても彼らには柔軟性もある。(ただ孔子は『天』と『神霊』は別物だと解釈している。)
このようにして、確かに彼らの教えの形や宗派は、微妙に違うかもしれない。だが、彼ら四聖が説く話によく目を見開いて着目すると、彼らの言葉は結局全て、『真理(的を射ている話)』だということにたどり着くのだ。
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
彼らが『四聖』と言われ、『知性の源』であるとされ、彼らの言葉が傾聴に値する理由とはまさに、彼らが聞人(ぶんじん。世間によく名の聞こえた人)や郷原(きょうげん。世渡りのうまいお調子者)を向こうに廻して、自らの信ずるところに従って、堂々と主張し、行動した勇者だからである。
参考文献『論語の活学』
ちなみに私はこのイエスの教え『わたし』を多用することについての意味を解読した(勝手に)。それが上の記事の中にある、下記の部分である。
そのために中には、命を落とした者もいる。だが、彼らは自分の信念を貫いたのだ。私は何も信仰を持たないと決めている人間だが、彼らが『力』に屈することなく命を全うした、『人間の模範』であると尊敬している。だがひょっとすると『真の信仰』とは、こういうニュートラルで純粋な気持ちから生まれた、『敬意』なのかもしれない。
「月下四聖図」(長野剛)
そして二つ目はこれだ。
自分のココロに目を向けること
『反省→猛省→内省→内観(ないかん)』の順番でその深さは変わってくる。これらの違いは、『反省と猛省』が『後始末』であるのに対し、『内省と内観』は『前始末』であるということ。特に『内観(瞑想)』は、前始末どころか、『奥始末』、あるいは『底始末』というべきで、心の奥底に眠っている過去の記憶や、あるいは『自分が有限の命であること』を悟る、高潔な精神統一である。
ブッダのやった『ヴィパッサナー瞑想』も、スティーブ・ジョブズがやった『禅』も、全てこの『内観』の一種である。
『内観』は、宗教儀式でも何でもない。何しろ、ただ『自分の心と向き合うだけ』なのだから。しかし、その尊さを語ろうとすると、あまりの大それた言葉の選定に、どこかそれっぽく聞こえてしまう為、抵抗を覚える人がいるかもしれない。だが、こればかりはやってみなければ理解しないだろう。やれば全てに合点がいく。それが『内観の実力』である。
反省と猛省は『頭に浮かんだもの』の処理。内省と内観は『心に沈んだもの』の処理。その決定的な違いを知ることは、人生に大きな影響を与えることになる。
・NEXT⇒(内観と『思い出のマーニー』)