仏教の開祖 釈迦(画像)
Contents|目次
内省
これはあまりにも究極的すぎて、ついてこれる人間は少ないだろう。少ないといっても、本当に少ない。いないかもしれない。
だがブッダは言っている。
『もしも君の敵が君をつかまえて、のこぎりで手足を切断しようとするならば、手にも足にも激痛が走るだろう。手からも足からも、身体的苦痛を送信するデータが入力されてくるだろうけれども、その身体の苦痛データに対して心を反応させ、『いやだ!』と心に怒り、すなわち反発心が生まれるならば、君は私の生徒ではなくなってしまう。私の生徒であろうとする以上は、誰に何をされても怒らないように。』
さて、特に『仏教徒』のみなさん。あなた方の中に、真の仏教徒は、どれぐらいいるだろうか。自分は本当に『仏教徒』だと名乗れるか、内省しなければならない。仏教のトップ、ブッダが言っているのだ。それが出来なければ、私の生徒ではないと。
実はブッダという人は、『超自然的存在』、つまり『神』とみなされたり、『崇拝の的』となることを拒否していた。一生の間ずっと、自分の教えは経験に基づくもので、経験のみが輪廻から解放してくれると繰り返し述べていたのだ。
如来も仏像もお地蔵も、すべてはブッダの弟子たちが勝手に作った”神”だ。ブッダはそういうことをしろとは一言も言ってない。つまり、弟子たちが勝手に創り上げた”虚像の神”に合掌し、念仏を唱えて、ブッダを崇め、教えを乞う暇があれば、きちんと『本物のブッダ』と向き合い、『本物の教え』に従うべきではないだろうか。
と、まあ他人をいじくるのはこの辺にしておくが、かくいう私も当然、のこぎりで身体を切断されたら、(いやだ!痛い!)と思ってしまうに違いない。ブッダとてのこぎりで体を斬られた経験があるわけではない。あまりにも究極的な話だということだ。
この話をもっと紐解けば、こうなる。
『怒り、嘆き、悲しみ、苦痛、人生を生きていると、心がそういう感情に包まれてしまうことはある。だがその時に、それに屈して、流されて、支配されて”負”に侵されてしまうのではなく、それらすべてのこの世の”負”でさえ、慈悲の念によって許し、愛し、同じ諸行無常の、この世の運命共同体だと考えて、一心同体となる。そうすれば、この世のあらゆる苦痛から、あなたは解放されるのだ。』
さすがは『ブッダ(悟りをひらいた者)』だ。脳を、創造を、宇宙を、人生を、向き合い、考え、考え抜き、突き詰められなければこの考え方にはたどり着かない。
のこぎりで切られるのは究極の場面かもしれないが、たった一度の人生で、そんな究極の場面ですら動揺しない自分を保てれば、それは、この世に打ち克ったと、堂々と主張できるのだ。
人の矜持とは、自分の心に打ち克つことなのである。他人や神、そして命にすがりつきたい気持ちはよくわかる。だが、人としてこのたった一度の人生を生きていく中で、このことを覚えておくのは、損にはならないだろう。
参照文献
中部経典『鋸喩経』。
関連する『黄金律』
『人間が戦うべき相手は外にはいない。「内」にいるのだ。』
『アウトサイド・インではない。インサイド・アウトだ。』