仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
私が心から共感するブッダの教えの一つだ。
『木をノコギリで切り倒しても、その根っこが強力なら再びニョキニョキ生えてくる。それに似て、君の心に巣食った欠乏感があまりに強力な呪いであるがゆえ、一時的に落ち着いても根は生きているから、すぐにまたニョキニョキと伸び、苦しくなり、『足りなく』なる。』
この言葉を私が経済紙の『PRESIDENT』の宗教特集で見たときには、私は起業して3年目、そして重度の吃音症と軽いADD、ADHDにも似た症状を見せる、あまりにも愚かな『被害者意識』の塊を心底に抱えた社員とガチンコで向き合い、2年が経過した時期だった。もちろん彼のことを最初から病気だとは思って接していない。だからこそ、いざというときに異常と言っていいほど黙り込む彼に、何度頭にきて、怒鳴りつけ、時には殴りつけたかわからない。
自分が無責任なことをしておいて、それについて叱りつけたら黙り込む。もちろん、それについての『前始末』はしてあるのだ、私が。あらかじめ、『そうするな』と、指導してあるのだ。それにもかかわらず、凡ミスをしてしまい、それについて叱ると、黙り込む。
それも、1分や2分ではない。なんと、30分以上にもわたって黙り込み、ただ立ち尽くしているのだ。我慢強く、温厚な私も、さすがに激昂し、殴ったのを覚えている。そしてそれが1回や2回ならまだいい。だが、200回、300回という数字ならどうだろうか。もはや、指導されている側も、している側も、異常である。
ある企業の経営者は、『カンブリア宮殿』でこう言っていた。
『私は大体の失敗は許すことにしています。人間、誰でも失敗はしますからね。私もします。ただ、一つだけ許さない失敗があります。それは、何度も同じ指導をさせることです。何度も同じ指導をさせるということは、一度目に許したそのときの配慮や、チャンスを無下にしたということ。そういう人とは一緒にやっていけない。辞めてもらうことさえある。』
私はそれを聞いて、その通りだと思った。だが、わが社の社員はどうだろう。200回、300回だ。これでも少なく見積もっているのだ。私が激昂し、社員を異常だと思う気持ちも、納得するだろう。そして、その睨み通り、彼は『病気』だったのだ。
ある日、『英国王のスピーチ』という映画を観た。かつて英国史上最も内気な英国王と呼ばれた、ジョージ6世の物語だ。私はこの映画を観て初めて『吃音症』と呼ばれる病気を知り、そしてその『根』の深さを知った。社員はこの症状、そのままだったのだ。つまり彼は『病気(異常)』だった。『健康(正常)』ではなかったのだ。
そんなとき、ブッダのその言葉を見たのだ。そして、深く共感を覚えたということは、わかっていただけるだろう。だが実は、私はその言葉に出会うもっと前から、しかも彼の入社初月に、すでに『根本への助言』は行っていたのだ。それは、『7つの習慣』という、今や全世界で3000万部(当時は1000万部)を売り上げる叡智ある本にあった、『パラダイム転換』という考え方を知っていたからなのである。
その詳細は、以前私がまとめた『パラダイム転換』を見るとわかるだろう。そしてこの私自身、この『パラダイム転換』であり、『悟り』であり、『神の声』という現象が、『理解できる』という経験を人生で積んできた。
私はこれらすべてが同じ現象だと思っている。そして、一番『宗教っぽくない』言い方が、パラダイム転換なのだ。だからこそ彼に伝えていたのだ。いや、現時点でも伝え続けている。そして5年半が経とうとしている今、実に少しずつではあるが、彼がその『深い根っこ』と向き合う勇気を、見ることが出来始めているのである。それには、教育者が絶対に屈しないことが必要だ。『育児』と『教育』は違う。
彼は悲惨な過去を持つ。だが、だからといって甘やかして育てることは、『育児』ではあっても、『教育』ではないのだ。『教育』という言葉を辞書で引くと、『ある人間を望ましい姿に変化させるために、身心両面にわたって、意図的、計画的に働きかけること』とある。
生きながらえるというだけの人生でも良しとするならば、全ての犯罪者の人生を裁いてはならない。『枝』ではない。『根っこ』に訴えかける指導こそが、真の教育なのだ。
私は途中、『鬼』に仕立て上げられた。対象者のことを思ってやった指導の結果、そう扱われたのだ。ここまで来るのにした苦労は、とてもここには書ききれない。だが、私には確信があったのだ。私がなぜ、ちょくちょく『電力王』のこの話を引き合いに出すか。
日本の電力王、松永安左エ門はこう言っている。
それがなんとなく見えてくるはずだ。深海に潜らなければ、真珠は手に入らない。陽の光の差さない闇に挑戦したときに、自らの輝きを失わないために必要な、真珠が。
参照文献
法句経338。
関連する『黄金律』
『自分の心と向き合った人間だけがたどり着ける境地がある。』
『アウトサイド・インではない。インサイド・アウトだ。』