キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
艱難辛苦(かんなんしんく:人生でぶつかる困難や試練)を、どう捉えるかが、人生を決める。屈して、乗り越えられないか。あるいは、屈さず、乗り越えるか。簡単に言ってしまえば、この2択である。
私はいつもこう言ってきた。
『辛く、悲しい、耐え難い。混沌とした矛盾だらけのこの理不尽な人生を生きていると、どうしてもそういう場面に直面することがある。だが、それを嘆くことしかできないのか。嘆くのが、人間なのか。他の選択肢はないのか。そう考えると、見えてくる問題がある。それは、その艱難辛苦を、自分の人としての向上のために利用するという問題である。
こういう言葉がある。
byホイットマン
そうだ。艱難辛苦は、人が、一回り大きな器になる為に通るべき、登竜門なのだ。辛い、悲しい、それは、自分の心という『器』を削る音。削られた器は、削る前より大きくなり、人として、より一層の深みと幅がつき、器が大きくなるのだ。』
そう考えると、艱難辛苦はまるで、『最中は痛いかもしれないが、終われば一段階上の境地に立つことのできる、 ”脱皮”、あるいは”孵化”』である。一生幼虫の姿のまま終わる生命もあれば、綺麗な蝶に生まれ変わる生命もある。艱難辛苦は、成長する資格のある人間にしか訪れない、孵化のチャンス。
痛みに屈し、そのチャンスを不意にするか。それとも、脱皮、孵化、成長のチャンスを喜び、ものにし、あるいは受け入れ、人として次のステージへ進む覚悟を背負うか。どちらが”死”を受け入れているか、どちらが”人生”を見極められているか、内省する価値のあるテーマである。
参照文献
ローマ人への手紙 第5章。