キリスト教の礎 イエス・キリスト
Contents|目次
内省
『愛は与えるもの』だ。それなのに、『嫉妬するほど愛してる』などと(自分だけのものにしたい)と願うその欲求の、どこに『自由が与えられている』のだ。つまり真の愛で言うなら、例え相手が不倫をしても裏切っても、何をしても赦し、相手に自由を与えなければならない。
だが、だからといってそこにつけ込んで相手がやりたい放題にやるというのなら、当然そういう夫婦や恋人は破綻する。相手も同じように『与える』のは当然だ。お互いが『与える』。そこに初めて『夫婦愛』や『恋愛』が生まれるのである。つまり『赦す』のであって『許す』のではない。
『赦す』というのは、罪を帳消し、リセットするとか、免除するとか、やり直せるとか、そういう意味合い、つまり『愛』のような感覚である。『許す』というのは、認める、承認する、良しとするなど、そういう意味合い、つまり『許可』のような感覚である。
不倫を『許す』ということには絶対にならない。人殺しも同じだ。しかし、『赦す』ことが『愛』だ。それを覚えておくだけで大きな力になるだろう。
参照文献
聖書
シラの書 第9章。