四人の教師
『人として生きていていずれ死ぬ運命なのに、この四人と向き合わないまま死んでいいのだろうか?』
生涯、無宗教で生きると決めている私が彼らを通して内省をしようと決意した理由は、シンプルに、そういう疑問を抱いたからに他なりません。このたった一度の人生を『悔いのない人生』にするためには、避けて通れないと思ったのです。
両親にクリスチャンであることを強く望まれ(愛され)、そして強要され(愛され)た私には、どうしても腑に落ちないことがありました。それは、
一つの信仰を持つことで、その他の信仰を持つ人間との間に隔たりが出来る
ことの違和感、そして『強要される信仰』への違和感でした。
それは本当に『在るべく姿』なのか? …私はそうは思わなかった。こういう排他的かつ正当化された考え方の根幹にはあるのは、『人間本位な都合』のような気がしてならなかったのです。
長い年月をかけて、多くの失敗をし、少しばかりの成功をし、数えきれない葛藤をし、『真の愛』が何かを考え抜き、そしてようやく彼ら『四聖』と向き合う心が整い、『知層』を積み上げていくと、次第に、やはり幼少期に抱いた私のその疑問が、とても純粋で芯を捉えていたことを知り、やがてこう確信しました。
…私が『違和感』を覚えていたのは信仰そのものではなく、人間だったのだと。
関連リンク:『黄金律』
重要記事
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
四聖の教えとその本質
・NEXT⇒(内観と『思い出のマーニー』)
四聖とは
孔子 Confucius.
儒教の始祖。中国の思想家。また儒教は『孔孟教』(孔子と孟子の教え)とも言われ、孔子の次に重要な孟子という人物がいる。
ソクラテス Socrates.
古代ギリシャの哲学者。ソクラテスと言えば『自分の無知を知っている人こそ、知性があると言える。』ということを説いた『無知の知』が有名。
ブッダ Buddha.
仏教の開祖。仏教とは、読んで字の如く『ブッダの教え』であり、『ブッダ(仏)になる為の道のり』を指示したものでもあるという。曇りなき眼で内を観た者は皆ブッダになれるのだ。
イエス・キリスト Jesus Christ.
キリスト教の礎。モーセ、ブッダ、孔子、ソクラテス、ピタゴラス、マニ、ムハンマド、どの人物の弟子も死後の復活などは認めていないが、このキリストだけは、弟子たちが『復活を見た』と言っている。
四聖の共通点
『四聖(よんせい、しせい、ししょう)』とは、儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の四名の歴史的賢人のことである。
ドイツの哲学者カール・ヤスパースは、『偉大な哲学者たち』の第一巻をこの四人にあてており、彼らを『人間の基準を与えた人々』とみなしている。紀元前に生まれた彼らが、どれだけの人間に影響を与えているかを確認したければ、軽く周囲を見渡すだけで十分理解することだろう。
四聖にはこういう共通点がある。
1.親の職業を継がなかったこと
2.伝統的なしきたりや体制を改革しようとしたこと
3.人一倍の努力家であったこと
4.確固とした信念を持ちそれを貫いたこと
5.見据えた的の規模が大きすぎて周囲の理解が追いつかなかったこと
群を抜きすぎていて、文字通り『群』にいる人間達の理解が追いつかなかった。
孔子は、今でこそ中国を代表する大学者や聖人とされているが、同時代人の多くからは、出来もしないことをしようとしている身の程知らずや物好き扱いされていた(憲門第十四-四十)。
ソクラテスとキリストは、無実の罪なのに冤罪を着せられ処刑されている。ブッダも、バラモン教(現ヒンズー教)のカースト制度を否定したことで、バラモン教司祭の強い反感を買い、嫌がらせをされていたのである。
参考文献『四人の教師』
『論語の教え』
人間とはそういうものだ。大勢の意見が『黒』でまとまっているとき、たった一人の人間が『白』と言えば、たとえそれが真実であっても『白』の方を隠蔽し、それを主張する人間を異端児扱いする。その方が『楽』だし、そうすることで、自分たちの居心地が脅かされないと考えるからだ。
しかし、その『人間』の規模を超越して人生を生き貫いた。それこそが彼ら四聖の真骨頂なのである。
四聖の教えの共通点
四聖の教えの共通点は、大きく分けて『2つ』ある。まず一つ目はこれだ。
『真理』とは、『いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。』の意味。では、『神の信仰』を勧めるキリストはどう考えていたのだろうか。
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イエスはブッダやソクラテス同様に、幻影に満ちて不確かな現世とは対照的な、究極の真理が存在すると固く信じていた。しかも、一人一人が少しでもこれに近づこうとするなら、到達できる真理である。
しかし、イエスはソクラテスとは違い、自分は論理的思考によって真理を見出した、とは主張せず、合理的な教えによって真理を伝授するつもりもない。またブッダとも異なり、長く内省的な修行を積んだ末に真理を見出したことも主張せず、瞑想という方法で真理が得られるとも考えていない。この点でイエスは他の師とは根本的に考え方が異なっている。
参考文献『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』
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確かに彼らの教えの形や宗派は、微妙に違うかもしれない。だが、孔子も含めた彼ら四聖が説く話によく目を見開いて着目すると、彼らの言葉は全て『真理(的を射ている話)』だということにたどり着くのだ。
彼らが『四聖』と言われ、『知性の源』であるとされ、彼らの言葉が傾聴に値する理由とはまさに、彼らが聞人(ぶんじん。世間によく名の聞こえた人)や郷原(きょうげん。世渡りのうまいお調子者)を向こうに廻して、自らの信ずるところに従って、堂々と主張し、行動した勇者だからである。
参考文献『論語の活学』
そのために中には、命を落とした者もいる。だが、彼らは自分の信念を貫いたのだ。
私は何も信仰を持たないと決めている人間だが、彼らが『力』に屈することなく命を全うした、『人間の模範』であると尊敬している。だがひょっとすると『真の信仰』とは、こういうニュートラルで純粋な気持ちから生まれた、『敬意』なのかもしれない。
「月下四聖図」(長野剛)
そして二つ目はこれだ。
『反省→猛省→内省→内観(ないかん)』の順番でその深さは変わってくる。これらの違いは、『反省と猛省』が『後始末』であるのに対し、『内省と内観』は『前始末』であるということ。
特に『内観(瞑想)』は、前始末どころか、『奥始末』、あるいは『底始末』というべきで、心の奥底に眠っている過去の記憶や、あるいは『自分が有限の命であること』を悟る、高潔な精神統一である。
『内観』は、宗教儀式でも何でもない。何しろ、ただ『自分の心と向き合うだけ』なのだから。(ブッダのやった『ヴィパッサナー瞑想』も、スティーブ・ジョブズがやった『禅』も、全てこの『内観』の一種である。)
しかし、その尊さを語ろうとすると、あまりの大それた言葉の選定に、どこかそれっぽく聞こえてしまう為、抵抗を覚える人がいるかもしれない。だが、こればかりはやってみなければ理解しないだろう。やれば全てに合点がいく。それが『内観の実力』である。
反省と猛省は『頭に浮かんだもの』の処理。内省と内観は『心に沈んだもの』の処理。その決定的な違いを知ることは、人生に大きな影響を与えることになる。
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関連する黄金律
この記事に関連する『38の黄金律』。
6.『自分の心と向き合った人間だけがたどり着ける境地がある。』
孤独な時間を『孤高の時間』に昇華させることが出来るかどうかだ。
9.『他と違うことは恥ではない。誇りだ。』
他と異なることで迷うことなど何もない。元より、唯一無二の命なのだ。例えば、それだけでそこには競争優位性がある。
10.『どれだけ生きるかではなく、いかに生きるかが重要なのだ。』
生命が、その命を度外視してなし得ることは、尊い。
11.『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』
自分のこの命を何と心得る。この広漠とした果てしない宇宙、過去、未来永劫という甚大な規模において、唯一無二なのだ。
12.『『生きる』ということの本当の意味とは。』
『生きる』というのは命の躍動だ。命の浪費ではない。
14.『人の評価に依存することの愚かさを知れ。依存しないなら強い。』
人間には、理解できる範囲とできない範囲がある。では、その事実を受け、どうするかだ。
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『宗教を語る人間は嘘くさいが、宗教を語らない人間に、人間を語る資格はない。』
『私が『神』という言葉を抵抗なく使えるようになったのは、その言葉自体に何の意味も無いことを理解したからだ。』
『真の法律、仁義、道徳、倫理、大道といったものは、まるで、地球を囲む大気圏だ。その一線を超えたら、人は、人でなくなってしまう。』
『神の偶像崇拝が禁止されている、唯一とされているのは、神が人間ではなく、見えるものでもなく、真理だからであり、真理が2つあっていいわけがないからだ。』
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