儒教の始祖 孔子(画像)
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内省
かつて私は、18歳になるかならないかの頃、助言をした友人に、こう言われたことがある。
たけし
そのとき、私は一瞬心でこう思った。
(そうかもしれないな。)
しかし、次の瞬間に恩師が割って入り、その友人の『歪曲しようとした真実』と、私のその『自惚れ』を見透かしたように言った。
たけし
なぜ私が『自惚れ』だと思ったか。それは、私がその友人の言葉の中に、『あなたのように、高いレベルではない』と言うワードが入っていたことで、『自己の重要感』が満たされ、優越感という名の『曇り』が見識を濁し、彼に対する要求を妥協してしまった。
自分が上等な人間だと認められた。あるいは人権を尊重されたときに満たされる感情・
だがその刹那、恩師がすべてを見透かしたようにそう言ったのだ。その発言がなければ、その場は、その友人は、そして私の思慮は、濁り、あるいは歪められていただろう。
孔子も同じことを弟子のゼンキュウに言われている。
ゼンキュウ
すると孔子は未熟な私と違って、激昂して怒鳴り散らしたという。なぜ勝手に自分自身にストッパー(限界値)を定めているのか。自分の潜在能力がどれだけあるかも知らないで、現在、顕在している意識ごときで勝手に自分の人生を定めてはならない。
現在、顕在している意識。それはつまり、小学生であれば、小学生の頃、顕在していた意識。つまり、未熟な時期にも、顕在している意識がある。だがそれが成長していくではないか。中学生になれば、もうすでに小学生の頃、顕在していた意識のことは、恥ずかしいと思っている。だとすれば、なぜ、現在、顕在している意識ごときが、自分の限界値だと思ったのか。
孔子の弟子、孟子は、こうして自分で勝手に自分の可能性を閉じ込めてないがしろにすることについて、『自暴自棄』という言葉を創り、名付けた。自分で自分の可能性を棄てるなど。言語道断である。
さて、『私は自暴自棄な行為はしていない』と胸を張って言える人間はどれだけいるだろうか。いるなら今すぐ辞めた方が良い。我々はたった一度の人生を生きているのだ。
参照文献
子曰わく、力足らざる者は、中道にて廃す。今、女は画れり。