あがり症って日本人だけがなるの?
いいえ。日本人独特の精神疾患は、対人恐怖症です。
『あがり症の改善に必要な『自信』とは』に書いたように、あがり症の人にとって必要なのは、自信だ。自分に自信を持ち、主体性を発揮させることで、あがり症の症状はなくなる。
また、
あがり症はれっきとした病気か。それとも単なる個性か。 – Inquiry. |
病気だと気づかれないあがり症・うつ病・吃音症 – Inquiry. |
これらの記事で再三書いている吃音症の私の部下の場合でも、彼の解決のカギは主体性である。私がそれを見抜いたのは彼が入社した、その月だった。私が彼に言ったのはこうだ。
しかし、それから8年の月日が経っても、未だに彼がそのたった2つのことを実行に移し、自分のものとすることが出来ていない。そして、彼の吃音症はいまだに治っていない。
徐々にというのなら、変わってきていないといえば嘘になる。だが、あからさまな変化というものが見られていない以上、この記事を見た人が覚悟しなければならないのは、8年だろうが20年だろうが、
、ということだ。
そしてそれと同時に、彼が『徐々に治りかけてきている』事実と比例して、彼の主体性のレベルは向上している事実があり、パラダイム転換、つまり、『あがり症に有効な認知行動療法(間違った認識を修正)』でも書いた様に、『 』が、日々の内省と、8年という圧倒的な時間の経過によって、
半ば強制的に行われつつあるということからも、それが出来始めているということで、主体性とパラダイム転換さえ自分のものにするのであれば、
ということなのだ。
さて、アメリカの文化人類学者ルーズ・ベネディクトは、『菊と刀』という著書の中で、『
』という表現をしている。
日本人が失敗し、恥をかき、誇りを失う結果になるぐらいなら、切腹によって自ら自決する。そういう思想と行動は、欧米人から見て不気味の一言だった。
欧米人の多くはキリスト教徒だ。従って、自らの行動を律するのは『
』であり、その神の規範に反すると罰すると考えるが、日本人は違う。神よりも、 (仲間はずれ)にされることを恐れてきたのだ。そういう環境の違いが、現在のそれぞれの特徴に繋がっているわけである。
よく、欧米の会社は『松下幸之助などは、
』であるといい、日本人は『 』だという。
と言ったが、そのようにして皆で仲良く協力して力を合わせて困難を乗り越える、という考え方が、日本には深く根付いているわけだ。
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だからこそ日本が、東日本大震災で余計な犯罪を増やさなかったことを見て、世界中の人々が『
』として、絶賛した。また、電車事故で、ホームと電車の間に落ちてはさまった人を助ける為に、その場にいた人々が協力して電車を押して動かし、命を助けたというニュースを受け、『 』として、大きな話題となった。
アメリカは、
イタリアは、
香港は、
ロシアは、
タイは、
世界中の人々が、その『日本人の固い絆と高潔な精神』に敬服し、畏敬の念を抱いたのだ。
だが、その性質にはデメリットもあって、
だということなのだ。横とのつながりが深すぎて、横を意識し過ぎる。
だから、欧米では、『自分がどう生きて、どんな仕事をできるか』ということに重きを置くのに対し、日本では『隣人や知人と比べて、どちらが高給取りか』という部分に執着してしまう傾向があるのだ。
『あがり症(SAD)の症状と原因から浮かび上がる決定的なポイントとは』にも書いた様に、あがり症と対人恐怖症の違いは、
自分の存在や行動を相手が嫌がっていないか不安が高まる
自分の行動や発言に対して不安・緊張が高まる
ということなわけだが、SAD(あがり症)がある欧米と比べて、日本人独特の対人恐怖症というものの根幹には、こうした国レベルの文化の違いが関わっていると考えられるのである。
※Wikipediaの『世界宗教』の分布図