『状況』にぶつかったとき、 『状況』にいると気づいたとき、 その『状況』に身を任せる人と、そうじゃない人に分かれる。 例えば赤信号で止まっているとき、 横一線にたくさんの人が信号を待っているという『状況』。『周りが動き出してから』動く人と、 『自らが率先して青になったのを確かめて』動く人に分かれる。和菓子業界であの『とらや』を追い抜いた『たねや』の社長は、 信号では我先に一歩を踏み出すのが信念だという。
この心理を私は、とてもよくわかる。私も10代でとある修行を受けてからは、そういう人間になったのだ。 『流されているのではない』 という意志。つまりこれは、『主体性』が自分にあることを確認する行為でもあるのだ。また、同じように主体性の強い私がもう一つ言っておく必要があるのは、『言えない』と、『言わない』を勘違いしない方が良いということ。 私は誰にでも意見を言えるが、同じくらい相手の気持ちを配慮したいし、 争いになったら自分を止められない凶暴性があることを知っているため、 あえて『言わない』ことが多い。 それを『良く誤解』する人はこう言う。
(落ち着いていて、物腰やわらかくて、凛としてて素敵ですね。)
そして『悪く誤解』する人はこう言う。
(社交性が無い、意気地が無くて、不気味で、何を考えてるかわからない。)
当然全ての人が前者だったら私は『言わない』で済むのだが、 どうも私が意見を『言えない』人間だと勘違いをし、 横暴な態度を取る人間があまりにも多かった。 とあるかつての取引先など、担当をコロコロ変え、 その都度挨拶もせず、ぞんざいな扱いをするのだ。まるで、
(あいつは別に何も『言えない』奴だから、適当でいいんだよ。 誰か空いてるやつが、空いてる時に、なんとなく応待すればいいよ。)
こういう背景が手に取るようにわかる応対だった。 もちろん20代前半の頃だったから、私の未熟さも伝わってそうなったということが大きい。 だがとうとう私は、ある『義理』で我慢していたそれらについての忍耐を解除したのだ。
『あなたまさか、俺が『言えない』人間だと、本気で思ってるわけじゃないですよね。 『言えない』と、『言わない』を勘違いしないで下さいよ?』
私が過去に『やんちゃ』をした人間だったということを思い出したのか、 『元上司』だったその彼は、そのメール以来、 背筋が凍っていることが手に取るようにわかる敬語を使うようになった。 そして彼の会社の社長まで私の機嫌を取る始末だ。誤魔化しながら、機嫌を伺いつつ、だが自分の体裁を気にしつつ、こう言うのだ。
『あのー、メシでも食いに行こうよ、ね』
当然その『メシ』は実現していない。私が行く気が無かったからだ。全く残念な人間関係である。人は、とかく年上というものは、年下を見下す傾向がある。 自分のアイデンティティが崩れるからだ。
(この年下を丁重に扱うことは、自分のプライドが許さない)
などという自負があり、そして『見栄』と『プライド』の意味を勘違いしているのだ。本当にプライドが高い人間は、”力”で物事をねじ伏せて、真実を歪曲しようとする愚かな自分に腹が立ち、 居ても立っても居られないのである。 これが私が年上が嫌いな理由である。だが、本当にこの世から年上がいなくなってしまうと、 おそらく私の人生は生きがいの無いものになってしまうだろう。 さて、これで『主体性』のある人間がどういう気構えで人生を生きているかわかったはずだ。
かのナポレオンが言っている。
『じゃあブルック!! パッパグに錠の鍵をすぐに探して貰ってくれ あと檻の鍵と部屋の鍵と…』
『バーカ待て… 刀一本でいい…おれの刀を持って来い 全部斬っちまう』
どんなに困難な『状況』に遭っても、 その時にとる『行動の選択肢』は、自分の手にあるのだ。それを知っている『主体性』のある人間には、どんな小細工も通用しない。 もちろん、土壇場で能力をいかんなく発揮するためには、 普段の鍛錬が必要不可欠だということは言うまでもない。『覚悟』や『裏打ちする努力』が無いのに堂々とした態度を取れば、 単なる『口先だけの人間』に成り下がってしまうからだ。 『自分の人生を堂々と生きる為に必要なだけの努力』を、 主体性のある人間は、怠らない。それがあって初めて、人生を主体的に、堂々と生きていくことが出来るのだ。
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
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この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。