意味
この言葉は、傲慢不遜に陥った人間が、高慢ちきかつ高飛車に、『我こそは王である』と自惚れ、過信し、人々を揶揄して見下す、思い上がった言葉ではない。言葉をよく見ればわかる通り、『闇に続く道を知っている』、『堕ちたのではない』と出ている以上、この言葉を言い放った人間は、『強いられた』、あるいは『強いられている』のである。
私はこの世に生きた500人の偉人の言葉と向き合って、彼ら偉人にある共通点を見つけた。それこそは、『強いられていた』という事実だ。以下に、その氷山の一角を書き記そう。
貧乏・借金
病気・障害
- アインシュタイン
- ウィトゲンシュタイン
- エジソン
- カフカ
- ゲーテ
- ゴッホ
- ダーウィン
- タイガー・ウッズ
- 高杉晋作
- 田中角栄
- チェ・ゲバラ
- ドストエフスキー
- 夏目漱石
- ナポレオン
- バイロン
- バッハ
- ニュートン
- ピカソ
- ブルース・リー
- ベートーヴェン
- ヘルダーリン
- ヘレン・ケラー
- マルク・シャガール
- ムンク
- 宮沢賢治
- ルノワール
- レオナルド・ダヴィンチ
コンプレックス
迫害・弾圧・誤解
孤児・家族との数奇な死別
目標
虐待・虐め
差別
ユダヤ人(差別)
これは言った様に、氷山の一角だ。ちゃんと調べていない。この数年間で、様々な本を読んだり、偉人の言葉と触れ合っていたら、自然とここに挙げたような人々の情報が入ってきただけで、実際にはもっといるだろう。
例えば、松下幸之助や本田宗一郎、井深大に盛田昭夫等は戦争を体験している。シャルル・ド・ゴールやホー・チ・ミンといった同じ時代を生きた各国の大統領たち、また、大統領で言うなら、別に戦争を経験していなくても重い重い責務を『強いられている』。山本五十六やネルソン等の軍人たちもそうだ。岩崎彌太郎や坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、西郷隆盛らもそうだし、孫文、チャンドラ・ボース、ネストル・マフノ、シモン・ボリバルらは革命家とて、『革命すべきもの』が目の前に立ちふさがっていた。
強いられていたというのは、『と感じていた』ということもここに含まれる。繊細、敏感、過剰、というポテンシャルを持っている人なら、ちょっとしたことで『強いられた!』と思うことになる。また、上記に記載したイチローや岡本太郎などの『目標』についてだが、これは『強いられた』というよりも、『自ら強いていた』という表現も出来る。
例えば岡本太郎の父、岡本一平は言った。
このような発言をする人間を父に持つ岡本太郎は、それはそれは高い目標を掲げることが日常的だっただろう。また、迫害や弾圧は、本人らが『それに向かっていかなければ(それを主張しなければ)』受けなかったかもしれないが、本人らは、その『意志』を持っていたからこそ彼らであり得たわけで、意志を貫いた延長線上に迫害や弾圧があれば、それは強いられていた人、として数えることになる。(出る杭は打たれる)
だがどちらにせよ彼ら偉人の共通点とは、目の前に、並々ならないものがぶら下げられていて、それを打破する為にエネルギーを燃やさざるを得ず、そして燃やした結果、偉大なる結果を捻出することが出来た。そういう印象を受けるのである。
その後、『ナイト・ミュージアム』という映画で、ロビン・ウィリアムが演じる登場人物である『テディ』、つまりセオドア・ルーズベルトが、主人公のラリー・デリーに対し、こう発言をするのを観た。
『ある者は生まれつき偉大、それ以外は強いられて偉大になる。君にとって、 これが偉大になるチャンスだ。』
私はその時すでに、偉人の共通点が『強いられていた』ということだと突き止めていたので、このシーンを観た時、背筋に電流が走るのを覚えた。
『この道は闇に続いている。私はそれを人一倍知っている。だからこそ歩ける、王道の道がある。私は堕ちたのではない。王になる道を歩く権利を得たのだ。』
この言葉で言うなら、『目の前に並々ならないものがぶら下げられている』というよりは、ピタリ来るのは、イタリアの政治思想家、マキャベリのこの言葉だ。
つまり、
『私は確かに地獄に堕ちた。だが、堕ちたからこそ知っているのだ。この道を上っていきさえすれば、そこには天国があるのだということを。』
ということなのである。
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