意味
ピエロの話だ。あれがエンターテインメントとして扱われることは全然いい。それの話をしているのではない。私が話をしているのは、『ピエロでもない人間がピエロのようにおどけている事実』についてだ。ピエロの様におどけて人を集め、楽しませ、大いに盛り上がる人がいるが、事実、彼らの人間関係は、『ピエロと客』以外のなにものでもない。
そこにあるのはまるで、『ピエロのパラドクス(逆説)』だ。 パラドクス(逆説、ジレンマ)というものは、『目的を達成しようと思うのだが、自分がやろうと思う方法でそれをしてしまうと矛盾が生まれ、その目的を達成できない』というようなことを指す。
Wikipediaにはこうある。
ナイル川の河岸で人食いワニが子供を人質にとり、その母親に
「自分がこれから何をするか言い当てたら、子供を食わないが、不正解なら食う」
と言った。これに対し、母親が
「あなたはその子を食うでしょう」
と言った場合、 ワニが子供を食う場合、母親はワニがしようとすることを言い当てたので食べてはならない。
ワニが子供を食わない場合、母親の予想が外れたのでワニは子供を食べても良いことになる。しかしそこで食べると、結果的に母親の予想は正しかった事になるため、矛盾にぶつかる。このように、ワニが何をしようとも自己矛盾してしまい、子供を食べる事も、食べない事もできなくなってしまう。
ピエロを演じている人ががおどけているのは、人々と仲良くなりたいからだった。だから皆が喜んでくれそうな厚化粧をして、芸をしてみせ、人々に貢献して喜ばせることに徹した。すると思惑通り、人は集まってくれた。
よかった!楽しい!こういう人間関係を、俺は求めて来たんだ!
ピエロは自分の目標を達成し、夢を叶えたと思った。
…だが実際には彼らは、ピエロが芸をするから近寄ってきただけだった。ピエロが白塗りの化粧を落とした素顔や、彼の本名、そして思想や信念には興味はなかったのである。彼は仲良くなりたいからピエロになったのに、知らぬ間に真の人間関係から遠のいてしまっていたのだ。
パラドクス=逆説。つまり、ピエロは人を笑わせたかった。友達になりたかった。そして、そこに集った皆で、あわよくば一緒に何かをやりたかった。しかし、化粧を落とし、芸を辞めると、人々はあっという間に自分の前から立ち去ってしまった。
そこに残ったものは、追い求めていた事実ではなかった。ピエロは、人々を楽しませることにばかり気を取られ、自分という人間の本性が何であるかを、そこにいる皆に伝えそびれたのだ。彼らは、『ピエロの本性』になど興味はなかった。彼らが興味があったのは、『ピエロがやる芸』だったのだ。
これは私の話だ。私は、両親にクリスチャンであることを強要されて育ったことが手伝って、地元の悪友たちと、まるで家族であるかのように振る舞い、そして実際にそのようにして、貢献した。誕生会を率先して開いたり、温泉旅行や、夏にはプールや海を計画する。人と人との間に入って、緩和し、中和し、鎖の役に徹したり、そうして集団に貢献していって、周りからは常に『君たちの地元は異例なほどに仲がいいね』と言われていたものだった。
ドイツの詩人、シラーは言った。
確かにシラーの言う通りだった。どんちゃん騒ぎだ。それはつまり、悲しい事もどんちゃん騒ぎで中和される。しかし私は、彼らとの関係を築いた中で、『得た』ものよりも、『失った』ものの方が多かった。私は彼らに貢献した。そして事実、刹那的な快楽に酔いしれ、それを堪能した。私はあわよくば彼らと、家族の様な関係になることを願っていた。しかし、私は『家族』というものがどんな存在なのかを、理解していなかったのだ。
私は両親に、クリスチャンであることを強要されたと前述した。そして、そこで生まれた不満を、外にぶつけて、外で解消しようと画策した。それはつまり、自分と全く同じ価値観の人間と人生を共にしようとすることを意味し、少しでもそうじゃないなら、両親同様、別々の生き方をせざるを得なかった。
彼らは、私がピエロの様におどけてみせ、芸を披露すると喜んだ。しかし、私が化粧を落とし、本名を語り、真面目な話をすると、さっと蜘蛛の子を散らすようにいなくなったのだ。私は『家族』を求め、『理解者』を求め、ピエロに徹して友人を楽しませた結果、本当の自分で生き貫き、その延長線上で出会うはずの本当の友人と出会う、機会損失を起こしていたのである。
私と同じような思いをする人はたくさんいるだろう。私はそういう人にエールを送りたい。
『なぜ必要以上の化粧をしている。なぜ人目を気にしておどけているのだ。ピエロのパラドクスを知れ。』
たった一度の人生に、悔いを残すな。大丈夫だ。ここからでも十分間に合う。
関連する『黄金律』
『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』