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Contents|目次
各宗教やこの世に存在する教訓の根幹にあるもの
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
各宗教やこの世に存在する教訓の中で、この図式がどれだけ異彩を放っているかを確認していこう。
孔子(儒教)
『世界がわかる宗教社会学 入門』にはこうある。
儒教は、徳や礼を重視し、法よりも慣習によって統治しようとします。しかしそれは理想論で、現実には犯罪に対処しないといけません。(中略)儒教の考えは徳による支配ですから、支配者がしっかりしていれば他の人々の行動も正しくなると考える。しかし、いったいどうやって正しくなるのかというとプロセスの論理がなく、マニュアルもありません。法家は、法律というかたちでそういうマニュアルを用意します。儒教と法家が結びつくことで、強力な統治のツールが生まれました。
(中略)儒教は、法治(法の支配)ではなく、人治(人の支配)が原則でした。社会主義中国が市場経済に移行しようにも、法の支配が実現しにくいのは、こうした背景があります。
儒教では、『徳』があればこの世に虚無が生まれることはないと説いた。人々に徳さえあれば、不義理や不正義は行われない。ひいては法律も必要ない。それが実現可能かどうかということは置いておいて、儒教においてもその根幹にあるのは、『揺るぎない圧倒的な力』である。その力に人間が合わせにいきさえすれば、この世に少なくとも人為的な虚無が陥ることはないと考えていた。
ソクラテス(古代ギリシャ哲学)
次は古代ギリシャの哲学者、ソクラテスだ。『四人の教師』にはこうある。
『なぜ人間は成長するかといえば、食べたり飲んだりすることによって肉に肉が加わり、骨には骨が加わって大きくなると思っていた。それで、大きい人と小さい人が並んで立っている時、ちょうど頭だけ大きいのだと考えれば十分だと思っていた。つまり、10が8より多いのは2が加わっているからだと考えていた。
しかし、私にはそれらの事柄のどれ一つについても、その原因を知っているとはとうてい思えない。1に1を加えるとき、最初の1が2になったとか、くわえられた1と最初の1とが一方を他方に加えることによって2になったとかいう説明には納得がいかない。なぜなら、両者が互いに別々にあるときはその各々は1であって2は存在しないのにそれらが近づくや否や、つまり互いに近くにおかれて一緒になったことが、両者が2になった原因だという点だ。それに、誰かが1を二分すると、このことが2になる原因だということも納得がゆかない。なぜなら、2になることの原因が前と反対になるからだ。
さらにいうと、どのようにして1が生じるかということも、何であれどのようにししてそれが生じ、滅び、存在するかということもこういう探究の方法に従うかぎり、私はもう自分が知っているとはどうしても思えない』
『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。
『いつの日か、あなたがこれを観ることができるようになるなら、この美は、現在のあなたの目をくらませる黄金や装飾品や可愛い子供や美しい少年とは比べものにならぬことが分かるでしょう。あなた方は、愛する者の姿を眺め、一緒にいることを楽しむためなら、飲み食いを我慢することもいとわない。それでは、あなた方の誰かに、飾り気鳴く、純粋で、混じりけのない美そのもの…それ自体で完結した一つの形となった驚嘆すべき美を観ることが許されたとしたら、その者はいかなる思いを抱くでしょうか?』(饗宴211D~E)
以上の愛(エロス)に関するソクラテスの説は次のように要約できよう。
人間の愛は恒常的に満たされぬ願望であるが、長い精神的修養の末に絶対的な美を観るという神秘的な体験によってその渇きは癒される。こうしたソクラテスのエロス観は、後生のユダヤ教やキリスト教、もしくはイスラム教の神秘家たちの考えに通じている。すなわち、愛とは神を必要とする人間の無自覚な欲求であり、神との出会いにおいてのみ安らぎを得ることができる、という考えである。
『PRESIDENT』2016.12.5号にはこうある。
知徳合一
道徳的でない行いをしているとき、実は内心傷ついている。これは本人にとって不幸である。人は本来、道徳的な生き物であり、道徳的な行いをしているときが最も幸福である。もし心の平安が訪れないのなら、その理由は徳が何かを知らないからだとソクラテスは考えた。何が善で何が悪かを学び、正しい徳の知識を身につけ、それを実行すれば幸福になれるとソクラテスは説く。ソクラテスにとって知識(知恵)と徳は同じものだった。
ソクラテスは、自分が『知者』と仮定した場合、だが、私は自分が知っているとはどうしても思えないという『虚無』に襲われた。つまりそれは真実ではなかったため、真理から逸れることだった。
また、神との出会いにおいてのみ安らぎを得ることができる、という発想があった。この『神』だが、『神=真理=愛』という図式が存在すれば、合点がいくことになる。そして『知徳合一』を説いた。人が『徳』から逸れるとき(道徳的な行いをしないとき)、人の心は虚無になり、不幸となると言った。
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
のであり、まるで暖炉に近づけば温まり、遠ざかれば体が冷えるように、そこ(真理・愛・神)に近づけば、安らぎを得られるのだ。
ブッダ(仏教)
では、ブッダ、仏教はどうだっただろうか。『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある。
宮殿で、若き王子シッダールタはこの世のすべての楽しみを満喫していた。仏伝によれば、遊女はあらゆる肉体の快楽を惜しみなく与え、香りの良いお風呂を用意し、王子が特に好んだ入念なマッサージを施した。ちょうど17歳の頃、自ら従妹のヤショーダラー王女と結婚した。また習慣に従い、ハーレムを設けた。王子は肉体の快楽も贅沢も拒絶しなかった。13年間、気前よく与えられる快楽の極致を味わいつくした。乱痴気騒ぎを控えることもなかった。王子が仏法を求めるためにすべてを捨てることを決めたのも、まさにお祭り騒ぎの番の翌日であった。
その晩、楽士や踊り子や遊女たちを交え、王子は酒池肉林のあらゆる楽しみをいやというほど味わいつくし、挙句の果て半裸の女性たちの間で眠ってしまった。目覚めたとき、宮殿のほかの人々はまだ眠っていたのだが、彼らの眠っている姿が死体の山にしか見えず、ひどく動揺した。
釈迦はブッダ(覚者)になる前、ひどくそれ(神・真理・愛)から逸れる行動を取っていた。手塚治虫の『ブッダ』や、ブッダを神格化した物語には登場しないが、釈迦にはこうした贅の限りを尽くしていた時代があるのだ。
しかしある日、目の前の人々が『死体の山』に見えた。そして自分の心に広がっていたのは『虚無』だった。
自分がやっていることは本当に正しいのだろうか…。この、心の虚無を解消する為に自分がやるべきことは、何なのだろうか…。
そして釈迦は旅に出て、ブッダとなっていった。
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
のだ。釈迦は、そこに逸れていたから心が虚無になり、近づくことでブッダ(悟りを開いた者)となった。
また、『世界がわかる宗教社会学 入門』にはこうある。
タントリズムの世界
密教はその後、ヒンズー教と混淆して、インドから仏教は消えてしまいます。密教の流れをくむタントリズムは、『しりん』(墓地の裏手の荒れ地)で男女抱合の儀式を行いサンヴァラ(性的合一による至高の快楽)を得る、という怪しげなものでした。地面の上に曼荼羅を描き、般若=女性、方便=男性、菩提心=男女の抱合という象徴方程式を立てて、集団的に男女が抱合します。
この儀式専門の、『だきに』という秘教集団の女性もいました。このように、性的快楽を、密教にいう『成仏を確信する方法』に採用したのがタントリズムです。そのほかに、
- 殺生
- 妄語
- 盗
- 淫
- 糞尿食
など、仏教の戒と反対のことを故意に行う修行法まで現われました。
仏教の対極のことを教えるような、こうした密教が存在していた事実があった。だが、これらの教えは、今の世にどこまで浸透しているだろうか。
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
これらはものの見事にそれから逸れていたため、虚無(消滅、淘汰)に陥ったのだ。
9.11を経て、宗教についての疑問を爆発させた、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。
『宗教に関してのことなら、真実とは、単に生き延びてきた意見のことにすぎない。』オスカー・ワイルド
本章の冒頭で、ダーウィン流の自然淘汰は無駄を忌み嫌うので、一つの種に普遍的にみらえる特徴ー宗教のようなーは、どんなものであれ、何らかの有利さをもたらすものだったにちがいない。さもなければそんなものが存続することはなかっただろう、という考察を述べた。ただし私は、その有利さがかならずしも、その個体の生存や繁殖の成功度を高めるものではないともほのもかしておいた。
風邪という鬱陶しい病気が人類にが遍在するのは、風邪のウイルスの遺伝子にとって有利だからだということはすでに見た通りだ。そして、その有利さの恩恵に与るものは、かならずしも遺伝子ではないかもしれない。
しかしその『生き延びてきた意見』は、『生き延びた理由』がある。ドーキンスは『それがかならずしも、その個体の生存や繁殖の成功度を高めるものではない』というが、それはあくまでも『かならずしも』だ。宗教の中には現代においても、『風邪(どう考えても人間をダメにする発想)』のような教えがあり、確かにそれが現在生き延びているからといって、それが=正しい教えだという結論にはならない。
しかし中には、『生き残るべきして生き延びた意見』というものがある。『面白いほどよくわかる仏教のすべて』にはこうある。
四つの真理
釈迦は『四諦(したい。四つの真理)』を説きます。四諦とは、苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つです。
苦諦(くたい)
人生は本質的に”苦”であり、生きることは苦しみの連続であるという真理。
集諦(じったい)
苦が生まれる原因を考え、その原因を明らかにするという真理。
滅諦(めったい)
苦しみの原因である煩悩を知り、それを消滅させることが苦を消滅させることであるという真理。
道諦(どうたい)
いかにすれば苦しみを超えられるか、修行実線の方法(八正道)についての真理。
苦悩を克服する八正道
更に釈尊(釈迦)は、苦を消滅させるためには八つの正しい道『八正道(はっしょうどう)』をとらねばならないと説きます。この八正道の根幹にあるものは、縁起の理法、すなわち、自分や自分の周りのすべてのものに対して執着がつくりあげる迷いの世界であるとみて、縁起の理法に即した実線を示します。
八正道とは、
八正道(はっしょうどう)
- 1.正見(しょうけん)『正しいものの見方』
- 2.正思惟(しょうしゆい)『正しい思索』
- 3.正語(しょうご)『正しい言語活動』
- 4.正業(しょうぎょう)『正しく生きる』
- 5.正命(しょうみょう)『正しく暮らす』
- 6.正精進(しょうしょうじん)『正しい努力』
- 7.正念(しょうねん)『正しい理想』
- 8.正定(しょうじょう)『正しい精神統一』
のことです。このような修行を積むことによって私たちは煩悩を消滅させ、その結果として”苦”から抜け出ることができるーというのが釈尊の基本的な教えなのです。
このブッダの教えの『四諦』と『八正道』は、『苦から抜け出す』為に存在する。そしてそれはもちろん、『虚無から遠ざかる』ことと同じ意味なのである。
イエス・キリスト(キリスト教)
では、イエス・キリストはどうだろうか。『四人の教師』にはこうある。
さて、イエスはガリラヤ湖周辺で教えを説き、病人の治療をして民衆の間で人気が高まります。イエスの教えは次の8つの明愛が基本となります。
- 1.心の貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。
- 2.悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるだろう。
- 3.柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受け継ぐであろう。
- 4.義に飢え渇いている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるだろう。
- 5.哀れみ深い人たちは、さいわいである。彼らは哀れみを受けるであろう。
- 6.心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るだろう。
- 7.平和を創り出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。
- 8.義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。
心貧しく、悲しむことが多くても、柔和で哀れみ深い人たちは神の国が受け入れて慰めてくれる。当時は階層社会ですから、小作の農民や奴隷たちは満足な教育を受けることもなく、日々の労働に追われ、差別や搾取に泣くことが多かったのです。
正義を求めて、心清く、平和を創り出す人たちは神の子と呼ばれるだろう。また、正義のために迫害されてきた人たちには神の国は彼らのものなのだ。これは人々への呼びかけであると同時にイエス自身への呼びかけでもあったのです。(ルカでは、1,2,4,8の4つが出てきます。私はマタイのほうが全体の整合性が良いのでマタイを取りました。)
『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうある。
山上の説教
さらにイエスは、日常生活や道徳上の規範を示す。その有名な教訓をあげてみよう。
- 1.人を殺そうと思ってはいけない。
- 2.姦淫してはいけない。淫らな思いで人を見ることは心で姦淫していることである。
- 3.復讐してはいけない。だれかがあなたの右の頬を打ったなら、反対側も差し出しなさい。
- 4.敵を愛しなさい。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい。
- 5.よい行いは隠れてせよ。
- 6.明日のことを思い悩むな。何を着ようか、何を食べようか、心配してはいけない。
- 7.人を非難してはいけない。
- 8.求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。
- 9.神の国には狭き門より入りなさい。
- 10.偽預言者に気を付けなさい。
イエスが語り終えると、群衆は、その言葉が胸の中にどんどん響いてくることに驚いてしまった。当時の律法学者が知識のみで説教していたのに比べ、イエスはたとえ話を巧みに交え、人々の心に問いかけたからだ。
これらイエスの教えも、ブッダの『四諦、八正道』同様、『虚無の対極にあるもの』を説いた。その対極にあるものの威厳はあまりにも崇高なので、群衆は、その言葉が胸の中にどんどん響いてくることになった。
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
その対極にあるものとはまさに、『真理(愛・神)』なのである。
また、『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうある。
不倫の果てのダビデの大罰
何不自由のない立場になったダビデ王だったが、ついに彼は、神を激怒させるような失態を演じてしまった。それは、王国がアンモン人と戦っている最中に起こった。
ある日の夕暮れのことである。午睡から目覚め、いつものように王宮の屋上を散歩していた彼は、一人の美女が水浴びしている姿をそこで目撃する。欲情したダビデは、人をやって彼女を召し入れる。彼女はダビデの家臣の一人ヘト人ウリヤの妻で、バト・シェバといった。魔が差した彼は、バト・シェバと床を共にし、ついに彼女は王の子供を身ごもってしまった。
慌てたダビデ王は、夫のウリヤを戦線から呼び戻し、妻と一夜をともにさせようと画策するが、生来生真面目なウリヤはそれを拒否し、戻ろうとはしなかった。窮地に陥ったダビデ王は、指揮官ヨアブにあてて、
『ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ』
との書状をしたため、そしてヨアブはそのとおり実行するのである。
(中略)王となって多くの民から慕われたダビデだが、卑怯にも、アンモン人の剣を使って同胞を殺し、その妻とも姦淫してしまった。律法を読み解くと、ダビデの罪は死に値することがわかる。(中略)次にバト・シェバとダビデの間にソロモンが生まれて来るのは、王が失意の底にあるそんなときであった。(中略)ダビデが過ちを犯しても神がそれを赦されるのは、彼の心が素直で、過ちをすぐに悔い改める精神を持ち合わせていたからである。
普通、ダビデがしたことは許されることではない。だが、『神がそれを赦した』。つまり、『許す』というのは、『認める、許可する』ということだが、『赦す』というのは、『免除する、やり直せる』ということになり、ここからわかるのは、ダビデが『真理(愛・神)』から逸れたときは、ダビデの身に様々な試練が立ちふさがったが、ダビデが自分の罪を認め、悔い改めたことにより、そこには『真理(愛・神)』があった、あるいは、それに近づいた行為を取ったので、ダビデの心は満たされる結果となった。
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
『真理=愛=神』だ。つまり、これらは全て同じものの可能性が高いのだ。何よりこれらは三つとも、『ここから逸れれば虚無に陥り、近づくと心に充足を覚える』という共通点をもっている。特定の人がそこに神様の存在を感じる(神様という支配者に『救われた』と感じる)と思うのは、まるで奇跡を体験した(間違いなく自分たちが考えられるようなものではない、自分たち以外の何かの力が働いた)かのように、心が充足する(温まる)のを覚えるからなのだ。
しかし恐らくそれは『神様の仕業』ではない。なぜなら、特定の人物の利益を満たす為だけに存在する神様など、人間の創り出した虚像だからだ。もし神様という人格神がいると仮定した場合でも、その人は絶対に人間(特にその特定の人物)だけの味方ではない。人が食べるため、着るために殺生され、人のために実験される動物、踏みつぶし、埋め立てて殺す昆虫、伐採する植物、目に見えない小さな生命を含めた、生きとし生けるものすべての味方であることはもちろん、
それ以外の万物すべての味方であり、決して人間だけのために存在しているのではない。この決定的な事実を直視できない視野の狭い人間本位な人間には、どちらにせよ『神(創造者)』の名を語る資格はない。
我々は、この『法則』に触れるか、触れないかということで、心が『充足』したり、あるいは『虚無』に陥るようになっているのだ。『神様』がいるのではない。まるで、暖炉に近づけば暖まり、離れれば冷えていくように、人間がそこに近づけば心は『充足』し、そこから逸れれば心は『虚無』になるのだ。
その法則は目に見えない故、人々はそれを各自で独自解釈し、『真理』と言ったり、『愛』と言ったり、『神』と言ったりしている。しかし実際には、人々はこれらが『何であるか』を正確に言い当てることができないし、未だにその全容も理解できていない。何しろこれらは目に見えないし、形をもっていないからだ。それにこれらは全て、人間が創り出した言葉であり、だとしたらその信憑性は低い。したがって、これら三つの『異なった的を射たはずの言葉』が指し示すものは、もしかしたら『同じもの』の可能性がある、ということは否定できない。
ゴッホは言った。
『真理=愛=神』。この三つの共通点はこうだ。
- 人の目に見えない
- 何ものにも支配されない
- 永久不変である
- 極めて厳かで尊い
- 圧倒的な威厳と力を持つ
- 未だに全容を理解できていない
- 逸れると虚無に近づく
- 近づくと充足を覚える
もちろんこれらが同じものであるという確率は100%ではない。だが、ここまでこれらの共通点が一致するものは他にはなかなかないのだ。この法則に触れ、
- それを『愛』だと認識した人は『愛っていいなあ。』と感じ、
- それを『神』だと認識した人は『神様、ありがとうございます…』と祈り、
- それを『真理』だと認識した人は『ユリイカ!』と叫ぶ。
[16世紀に描かれた、風呂に入ったアルキメデスのイラスト]
ダビデはこのとき、『神に赦された』と感じた。だが実際には、その法則に触れたり、逸れたりしただけだった。
『神は妄想である』にはこうある。
無神論者が不幸で、不安にかられ落胆に向かう何らかの一般的傾向をもつという証拠が存在しないのを私は知っている。幸福な無神論者はいるし、惨めな人もいる。同じように、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒のなかにも惨めな人はいるし、幸福な人もいる。
幸福と信仰(あるいは幸福と不信仰)のあいだに相関があることを裏付ける統計的な証拠が存在するかもしれないが、どっち向きにであれ、それが強い影響をもつというのは疑わしいのではないのだろうか。それを言うなら、神と無縁な生活を送ったら気が滅入るべき何らかの理由があるのか、こう問うほうがもっと興味深いと思う。私は逆に、控えめに言っても、超自然的な宗教などなくとも幸福で充実した人生を送ることができるという主張をもって、本書を締めくくるつもりである。
超自然的な宗教などなくとも幸福で充実した人生を送ることはできる。なぜなら、重要なのは宗教ではなく、宗教で説いているある教え(のみ)だからだ。
極めて『完全一致』に近い『部分一致』をした賢者たち
『四人の教師』にはこうある。
ここでもう一度釈迦とイエスの言葉を想い起こしてみましょう。
『実にこの世においては、およそ怨みに報いるに怨みを以てせば、ついに怨みの止むことがない。耐え忍ぶことによって怨みは止む。これは永遠の真理である。』(釈迦<ウダーナヴァルガ>第14章11)
『<目には目を歯には歯を>と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたを一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
求める者には与え、借りようとする者を断るな。<隣人を愛し、敵を憎め>と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。』(イエス マタイ第5章38-44節)
釈迦が、『復讐をしろ』と言い、イエスが『やられたらやり返せ』と言っていたのであれば、彼らの威厳は失われていた。
だが、彼らはそうは言わなかった。だからこそ彼らの威厳は今も尚保たれているのであり、その様相はまるで『真理(愛・神)』と同じである。
彼らは、『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』ということを知っていたのである。そして、『完全一致』こそはできなかったかもしれないが、極めてそれに近いほどの部分一致をしてみせた。これが、『わずかな部分一致』程度であれば、彼らの威厳はとっくに失われていた。
『完全一致』のイメージはこうだ。
そして『部分一致』のイメージはこうだ。
つまり、ここに挙げた偉人たち、あるいはあらゆる権威ある宗教は、この様にして極めて『完全一致に近い部分一致』が出来た稀代の天才たちであり、崇高な教えだった。だが、恐らく『完全一致』はできなかった。そして、その『ずれた』部分は間違いであり、その間違いを傍から見た時、人々はそこに違和感を覚えるのである。
それが例えば『各宗教の違和感』に書いたような、
- キリスト教=私が強要された事実。イエスの復活。イエスを信じた者だけに奇跡が訪れた事実。天動説
- イスラム教=聖戦という名のテロリズム。女性の接触制限
- ユダヤ教=ユダヤ人だけが救済される考え方。イエスを処刑した事実
- 仏教・道教=地獄の存在
- バラモン・ヒンズー教=カースト制度。輪廻
- 神道=天皇に対する過剰反応。八百万の神の発想
こういう実態なわけだ。これらはすべて、『完全一致できていない部分である可能性がある』からこそ、人の心に虚無を与えるのである。
『黄金律』、『70億人全員に委ねられた結論』に書いたのはこうだ。
例えば、真理を地球に例えたとしよう。『日本は、極東だ。』と海外の人間は言う。だが、私はその言葉を聞いてもピンと来ない。なぜなら私は、日本を中心にこの世界を見ているからだ。この現象が、各宗教、国家、人種、そして70億人全ての人間に起きているとしたらどうだろうか。
地球は一つだ。だが、それをどの角度から、誰が見るかによって、それがどのようなもので、どのような形をしているかということの意見は割れるのである。
人間は完璧ではない。だからこそ『神(真理・愛)』と『完全一致』できない可能性が高いという事実があるはずなのだ。そこから、目を逸らすべきではないのだ。しかし、彼らがたとえどんな人間であろうとも、彼らはただ者ではなく、またその権威ある教えも傾聴に値することは紛れもない事実なのである。普通の人間であれば、ここまで『真理(神・愛)』との一致に近づけることは出来ない。
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