儒教の始祖 孔子(画像)
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内省
佐久協氏の『論語の教え』にはこうある。
ソクラテスの孫弟子に当たるアリストテレスは、アテナイに学塾を創り、弟子たちと屋根付きの歩道(ペリパトス)を散策しながら、議論をしたり知識を伝授していたところから、『逍遥(しょうよう)学派』と呼ばれていた。
孔子も弟子たちと散策しながら問答をしているから、この章句も実際にあったことなのかもしれない。『豚に真珠』というのは『新約聖書』にある言葉だが、仏教関連では『豚に念仏』や『馬の耳に念仏』という言葉がある。 要するに『猫に小判』で価値がわからない譬えである。価値がわからないから、話して聞かせても『馬耳東風』で聞き流してしまう。
とにかく、自分が知った知識を、まず最初にひけらかそうとしてはならない。 それはさしずめ料理で言えば、確かに『良い食材』を手に入れたのかもしれない。だが、それを食材のままテーブルに出しても、いささか相手がその価値を理解して喜ぶとは限らない。相手はアレルギーを持っているかもしれない。好き嫌いがあるかもしれない。そういうことを考えると、自分が良いと思った食材の価値を、人がそのまま理解してくれるとは限らないのだ。
本当に理解してほしければ、まず自分で調理することだ。相手にふるまいたいなら、相手好みに味付けして味わってもらう。カスタマイズされて出来上がったその料理は、必ずや相手を喜ばせる。そして初めて、その食材の価値のなんとやらを理解されるだろう。『良い食材』が入ったと思ったら、まず自分で吟味するのだ。そしてその『調理法』をマスター(会得)し、それから伝授する。
例えば宮崎駿の『風の谷のナウシカ』には、アニメ作品のメタファー(裏テーマ)で、エコロジーを忘れ、エゴチズムの欲で盲目になった人間への警鐘が鳴らされている。だが子供や、その他の興味本位で観た視聴者が、そんな重いテーマを考えるためにこの作品を観ようと思っただろうか。いや、それが前面に押し出されている『教材』的な作品であれば、あれだけの人は観なかっただろう。
しかし宮崎駿は、その重苦しい、それでいて人が考えるべきテーマをメタファーに込めて、アニメーションという『食べやすい料理』に調理し、人々を振る舞うことに成功したのである。彼らは料理をおいしく食べ、しかも『メタメッセージ』を受け取った。本当に人に理解して欲しい智慧や知識があれば、まず『人間の仕組み』を知り、それに沿った調理法を考える為に調理場に立たなければならない。
参照文献
子曰わく、道に聴きて塗に説くは、徳をこれ棄つるなり。
関連する『黄金律』
『人の評価に依存することの愚かさを知れ。依存しないなら強い。』