仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
例えば、裕福な家庭に生まれ、温かい家庭にも恵まれたある一人の少年が、とある穏やかな秋の快晴の青空の下で、大好きなペットと遊ぶとき、あるいは最愛の恋人とおしゃべりをするとき、人は、どうして”激昂”できるだろうか。そこで”穏やか”な態度をふるまえるのは、本当に自分の器の成す人格からだろうか。それとも、 ”外部の力”のおかげだろうか。
人の真価が問われるのは、むしろその逆の状況下だ。
あの人の子供なんて顔も見たくない。
そういう理不尽な都合で親に捨てられた孤児が、孤児院でも不遇の虐待を受け、脱走し、人生のあらゆるストレスから逃避するかのように、生きるために、盗みや罪を犯しながら生きながらえる。
ある土砂降りの日、住みかにしていた、とある廃れた廃墟に戻ると、何者かに住みかを荒らされ、唯一のパートナーだった野良犬のハチが無残にも殺されていた。心ない近所の悪ガキどもがやったのかもしれない。
彼は、何を思えばいいのか。その後の人生を、どう生きていけばいいのか。倫理が捻じ曲がり、心が歪曲し、生きる意義を見失い、愛にさえも見放された彼を、誰が責め、そして救うことができるというのか。
自分は、”穏やか”?一体、どの状況下で言っているつもりだろうか。あなたがもし、不快な状況下でも怒らずにいられるのであれば、『真に温和で優しく冷静な人』と呼ばれるにふさわしい。
参照文献
仏典
中部経典『鋸喩経』。