仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
とかく、人間とは自分のしたことを人に認めてもらいたいものだ。これは、『自己承認欲求』として、人間に当たり前のように植えついている、インプットされている本能の為、誰しもがもっている欲求だ。それ自体は、罪でもなんでもない。
出典:『マズローの欲求5段階説』
むしろ、この『マズローの5段階欲求』を見てもわかる通り、人としてかなり上の段階に位置する欲求の為、これを求める人は周りから見ると、世に言う『成功者』などという部類の人間を目指す人々が、これに当てはまるため、人としてとてもアクティブに見える。
だが、この『マズローの5段階欲求』には、実は続きがある。それが『自己超越』という境地。『自己実現欲求』の上にあるもう一つの段階のことである。
普通の人間は、この図のように、『自己承認欲求』や、『自己実現』の欲求を満たしたと思ったら、最下層の『生理的欲求』に戻ってしまう傾向がある。結局人は、生きるために働き、少しでも快適な生活をするために苦労するのが目的だと考える為、そうなってしまうのだ。だが、自分の人生をじっくりと内省する思慮深い人間は、その次の段階から、目を逸らさない。
ここで、人として一流か、三流かの差が出るのだ。一人前と一流は違う。ブッダというのは『悟りを開いた者』という意味だから当然、ブッダは『自己超越』についての話をする。そのブッダは、『成功者になれ』などとは言わない。
もし自分を『成功者』という枠組みに当てはめるのであれば、当然世の中に、『敗北者』が生まれることになる。そうやって人間に『勝ち負け』をつけ、自分たちの業績を誇り、あとの者を見下し、思い上がるような人間が、『人間として成功者』のわけがないだろう。そういう態度をとる人間は大勢いるが、ブッダは言う。
『もしあなたの心がくつろいで静かに安定しているのなら、自分の業績を誇り、思い上がりの罠にかからないはずだ。』
つまり、表面でそれらを明らかにしたがる人間とは、実のところ、金があろうが、地位があろうが、名誉があろうが、心底では自分に自信がないのである。不正行為をしたのか、もっと崇高な人間を知っているのか、たった一度の人生を突き詰められずにいるのか、理由は様々だが、とにかく、現実を直視できないから、自分を棚に上げ、正当化をするのだ。
彼らはもちろん、『一人前』だ。だが、『一流』ではない。たった一度の人生で、『一人前』に甘んじるか、『一流』を追求するか、生きている限り、それを選択する権利が、全ての人間に、ある。
今日も『一人前』を選択する?それでもいいだろう。誰も責めはしない。
参照文献
経集783。
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『人間が転落するタイミングは決まっている。「得意時代」だ。』
『お金を稼ぐことは、良いのか。それとも悪いのか。』