仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
私自身がこれを勘違いしていた時代があったのだ。本能に従って行動することはとても快感であり、お腹が空いたら食事をあさり、遊びたくなったら遊びに出かけ、 眠くなったらところ構わず睡眠を取り、 風を感じたくなったらバイクや車に乗る。それで「自由」だと思っていた。それが「正直に生きる」ということだと思っていた。
だが違った。私は「自由」の意味をはき違えていた。「自由」とは、制する者が手に入れる概念だ。
支配する者。つまり、支配されている者は、これを手に入れることは出来ない。本能に支配されていた。私利私欲に支配されていた。だからこそ、その欲を満たした後、「後悔」が付きまとったのだ。このままでは悔いの残る人生を生き続けることになる。そう考えることになったときには私はすでに、類稀なる地に落ちていた。
「自由」とは、欲に従い、身を任せ、それに自分を乗っ取られることではない。逆に、乗っ取ることだ。欲を乗っ取り、時間を乗っ取り、人生を乗っ取ること。つまり、支配することなのである。
(お腹が空いた…)
気のせいだ。まだ待て。 もう少し待ったって別に死にはしない。
(風を感じたい…)
気のせいだ。風などいやというほど受ける時間がある。今にしか出来ないことを考えろ。今まさに自分は、自由なのだ。
(時間がもったいない…)
確かにそうだ。だが、だからといってなぜ刹那的な行動に出る。それこそが時間の無駄遣いだ。たった一度の自分の人生、 何をすべきかじっくりと考える時間を作ったって損はしないだろう。
やりたいことではない。やるべきことをやるのだ。遊ぶことが「やるべきこと」なのであれば、遊べばいい。学ぶことが「やるべきこと」なのであれば、学べばいい。 とにかく自分にとってそれが本当に「やるべきこと」なのかどうか、 思慮深く考えたうえで出した結論なら、間違いではないだろう。だが、思慮浅く決断したことなのであれば、あなたは必ずその決断に悔いを残すだろう。
参照文献
法句経371。
関連する『黄金律』
『他と違うことは恥ではない。誇りだ。』
『どれだけ生きるかではなく、いかに生きるかが重要なのだ。』
『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』
『「生きる」ということの本当の意味とは。』