仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
名著『7つの習慣』の解説本でもある、『タイムマネジメント4.0』にはこう書いてある。
『木を切ることに忙しすぎて、刃を研ぐ時間などない』と考えるのは、『目的地に着くのに忙しすぎて、ガソリンを入れる時間などない』と考えてしまうのと同じである。
我々の目的は、『暴走』することではない。何も考えずにただただひた走り、あるいは斧を振り続け、焦り、血迷い、思慮を放棄し、自分が今何をやっているかを理解していない人間は、悔いを残すことになる。我々はなぜ走っているのか。我々はなぜ木を切っているのか。一度そのことについてじっくりと考える時間を設けなければならない。そうしないといずれ自滅するだろう。
(そうは言っても)
などと、これに対する無限の言い訳が用意されているが、私ならその無限に逃げない。私の人生は、『有限』だからだ。たった一度のこの人生、『気づいたら走っていた』からといって、それはブレーキを踏まない理由にはならない。『違和感』を覚えないならそれでいい。だが、少しでもその列車に『違和感』を覚えるのなら、それはもしかしたら、自分の乗るべく列車ではないのかもしれない。
例えば、異常な犯罪を企てるような人間の息子、娘に生まれた子供はどうだ。彼らは、物心がついたときにはもうその列車に乗っている。そして親に対し、『異常』だとは思わない。『正常』だと思う。
だが、物心がついてくる。自我が発達してくる。見識が植えつき、違和感を覚えてくる。
(あれ?)
それがサインだ。それこそが、ブレーキを踏むべく合図だ。
列車を乗り換えることは、決して簡単なことではない。だが、自分の心がどう叫ぶのか。自分の心と向き合うことから逃げてはならない。逃げることは一見すると『楽』だが後悔し、立ち向かうことは一見すると『大変』だが悔いを残さない。全ての人生が、あらゆる環境の中で問われている。一度立ち止まって、点検をするぐらいの時間はあるはずだ。
リンカーンは言う。
人生は、思慮深く、計画的に生き、それを『楽しまなければ』ならない。そうじゃないと、思慮浅く、無計画に生きたことを『悔いる』人生を、強いられるだろう。
参照文献
法句経66。