仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
簡単に言うと、『悪循環と好循環』ということなのだ。難しく考える必要は全くなく、悪い行いのせいで、負の連鎖が回り続けることを『悪循環』といい、善い行いのおかげで、正の連鎖が回り続けることを『好循環』という。キリスト教の7つの大罪で言えば、
- 嫉妬
- 怠惰
- 憤怒
- 強欲
- 傲慢
- 色欲
- 暴食
たとえばこれら人間の愚かな私利私欲によって、最初の『負』が生まれたとする。 それに触れた周囲の人間が、その『負』に影響されてしまうとする。そうすると、また新たな『負』が生まれる。これこそが、『負の連鎖』である。
それに比べて『正の連鎖』を生む人のイメージとは、実にあっけらかんとしている。 自分の人生に、『執着』をしない。自分の功績を取られたと思っても(どうせまた機会はあるし)と思ったり、自分の失敗一つ取ってみても (まあいいや次にちゃんと活かせば) と思ったり、間違いなく他人から始まった負の連鎖だとわかっていても (まあ別に俺が断ち切ればいいか)と思い、とにかく前述した7つの大罪のような『醜い私利私欲』に支配されていない。
こういう人間からは『正の連鎖』が生まれる。例えどんな『ウイルス(負の原因)』が周囲に飛散していても、バリアのような『コーティング(正の心)』によってそれをはねのける。そういう人の人生は、より良い循環をする。さて、ここでいう『人生』とはなんだろうか。それは、自分の人生だけではないのだ。『人生』というのは、自分以外の全ての人の人生がそれに該当する。
人は、後悔する生き物だ。『前始末』が出来たら全ての事故、事件、不祥事は起きない。世界中で今この瞬間にもそれは起きている。それこそが、人間が『後始末』に追われる生き物であるという証拠である。つまり、『後悔する生き物』なのだ。だが、自分がいつまでもそのことについてくよくよとしていると、『人生』を棒に振るう。『人生』とは、自分の子孫のそれにも、該当するのだ。負の連鎖を、周りの人に押し付けたり、最愛の子孫へと繋いではならない。
『自分の人生』を肥やしに出来る。『自分の人生』はパッと咲き誇る花でなくても、肥料豊富な土壌で充分だ。『それに適した環境だった』のだから。そう考えられる人間のその『正の心』は、連鎖されるだろう。『執着』に支配されない人間の人生は、高潔である。
参照文献
法句経68。