仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
損な役を買って出て汚れに向き合ってくれるような、そんな貴重な人間を、無下にしたことはあるだろうか。私は、された側である。だから、説得力はないだろう。された側がこうやってここでなにか言っても、作り話などいくらでも言えるわけで、信憑性もない。かといって私は同情をしてもらうつもりなど、このブログを書いていて一度も思ったことはないし、誤解されたとしても、それは本当に『誤解』だからどうでもいい。何をしても人は批判されるのだから、自分の言うべきことを淡々と言えばいいだけなのだ。
エレノア・ルーズベルト元大統領夫人は言った。
そういうことなのだ。しかしもちろん、私がこういう『勇気ある行動』を取れるようになったのは、自分一人の実力ではない。私は物事や手柄を正当に評価したり、公正に見極めることに命を懸けている人間だ。 それは心が嫌がって拒絶していた、宗教を強要され続けた人生を送った、私、特有のパラダイムである。
その私が言うのだから、間違いない。これは自分一人の実力ではない。恩師の後押しが無ければ、私は『その他大勢の一人』の人間として、冷たく、卑怯に、醜く、『生きながらえていた』であろう。
それまでは、波風がピタリとやんでいた。私は完璧主義者だから、そういう人生を狙って生活していたから余計に綺麗だった。 だが、実際は、『綺麗に見えているだけ』だった。そして『それこそ』が、問題だったのだ。
ある日恩師に言われた。
恩師
そこからの壮絶な葛藤は省略するが、それはつまり、こういうことだった。
『自分だけ綺麗に生きていれば、それでいいのだ』
私が生きていた人生とは、そういう人生だったのだ。だから、波風など立たないに決まっていた。人の負に、闇に、汚れに触れず、自分一人で生きながらえていたのだから。それで表層では、仲間思いの『優しい』人間を装っている。
とんでもない。私が生きていたのは『易しい』人生だった。気づかされた私は、心底から相手を仲間と呼ぶために、見て見ぬフリをしてはいけない、という考え方が頭にがっちりと根付くようになった。当然、慣れあいをすればすぐにベタベタくっつけて、『友達ごっこ』に浸ることが出来る。しかしそれは、本当の友達の形ではないのだ。自分の汚れに手を突っ込んで、心の掃除をしてくれる人物を、無下にしてはいないだろうか。
確かに最初は抵抗があるだろう。しかしそういう人は滅多にいないということを忘れてはならない。そして、そういう人こそ、真の友人なのだ。相手はもしかしたら、勇気を振り絞って手を突っ込んだのかもしれない。相手にどう言われるか、もしかしたら絶縁になるか、そういう覚悟をして、臨んでいるのかもしれない。
真の友人がどういうものなのか、今一度考えてみるのが良いだろう。
参照文献
経集255。