仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
もしそれが『悩み、苦しみ』の原因になっているなら、『好き嫌い』はやめた方が良い。
という声が聞こえてきそうだが、その言葉を言う意味はないと自覚せよ。
この時点で、
となる人は大勢いるだろう。よくわかる。気持ちはとてもわかる。私もそうだった。 というか私は、
ぐらい乱暴な人間だった。その私が言っているのだ。間違いないはずだ。『やめた方が良いとわかってやめられるくらいなら苦労はしない』と言ってしまう人は、こう考えたことがあるだろうか。
(何でこういう風に、まず相手・外部に対して文句を言うという選択肢が思い浮かぶのだろう)
と。恐らく考えたことがないはずだ。だから言ったのだから。だが、今回の内省で、その感覚を掴んだ。『好き嫌いがある』とか、『うるせーよ』とか、『まず外部に責任転嫁する』とか、一体誰が決めたのだろうか。周りの人が大勢やっているのだろうか。大勢がやっていることは、全て正しいのだろうか。
だとしたらあなたは、意志がないただの『その他大勢の一人』だ。自分の意見があるように吠えて見せるが、実際は『周りに流されている』。常識、周り、大勢、何でもいいが、流されている。虚しくはないか。私はそれに気が付いたとき、虚しかった。
『うるせーよ』と言うぐらいだ。自分にプライドがある自負があった。だからこそそのプライドが『実はちんけな見栄だった』と知った時、全身の毛穴から血の涙がにじみ出るような屈辱と、惨めさを感じた。そして、絶対にそのままでは終わらせないことを誓った。そこまで考えると、もうテーマが何であれ、関係なくなってくる。
今回のテーマは、『好き嫌いが、悩み・苦しみの原因になっているなら、好き嫌いに固執するのはやめよう』ということである。だとしたら、
(そうか。やめてみるという選択肢もあるのか)
と考えるのが、本当にプライドの高い人間の取るべき選択肢だ。
ブッダはとてもプライドが高い人間だ。人としての誇り、矜持を持ちながら、それに固執しない。頑固だが頑迷ではない。高潔だが、崇高ではない。弟子たちが勝手にそれを誤解して広めるが、事実、ブッダ(釈迦)の生き方は人間の模範である。
仏教徒になる必要はない。見習えばいいだけだ。私は生涯どこの宗教にも属すつもりはない。しかしそんな私が観ても、ブッダはとても見習うべきところがたくさんあると心から思っている。ブッダが生きていたらきっと、
ブッダ
と言うだろう。 もっとも、その中でも極めて低いレベルの生徒ではあるが。とにもかくにも、考え方一つ、固執しないだけで道は無限に広がって、結果的に自分の悩み、苦しみを解決するだろう。
参照文献
法句経372。