キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
裁判とは、裁きをし、是非や罪の有無を判断すること。それは当然、公平でなくてはならない。裁判官になる為の条件や、彼らが強いられる厳かな管理体制を考えても、それは垣間見える。
最高裁判所長官は、内閣の任命を受けて、『天皇』が直々に任命の許可を出すほどだ。それを考えただけでも、人を裁く裁判というものが、どれだけ人の倫理の上でギリギリの位置にあるかということがわかる。だがそれでも、裁判官の中には、加害者側の弁護士(刑事事件では検察)と裏で取引をし、常識では考えられないような判決を下したり、被害者に対して著しく不利益な内容の和解を強要する者もいる。
それだけの厳重な体制を敷いても、人の浅ましさたるや、なんと愚かなことか。だが、これが人間。人間がそうじゃなければ、もともと厳重な体制など必要ないだろう人間は、それでも人を裁き、秩序を守り、無関係の罪のない人や、子孫の人生を守らなければならない。他の一切の生命も、形は違えど同じことをやっている。
だが、とかく裁判とは、人が人を裁くというのだから、それだけで越権的だ。その行為には極めて慎重な心構えで望まなければならない。そうしなければ、倫理や秩序、人間の威厳は破綻する。破綻するとどうなるかというと、人が住みづらい世の中になり、人は地球から淘汰されていく。他の生命と同じように。
裁かれる者の結果は、”適して”いるか。裁く者は、”適して”いるか。この世は弱肉強食の、”強者生存”ではない。 ”適者生存”だということを、忘れてはならない。
参照文献
ザカリアの書 第8章。
関連する『黄金律』
『人の評価に依存することの愚かさを知れ。依存しないなら強い。』