キリスト教の礎 イエス・キリスト
Contents|目次
内省
私は無神論者だが、あらゆる宗教を否定するつもりはない。それをしてしまえば、この世の50億人以上の人間の人生を、否定することになってしまうからだ。それは同じ人間として、とても越権的で、傲慢で、在るべく姿ではない。たとえばこの考え方に達したのも、私が『真理』を重んじていたからである。葛藤し、経験し、失敗し、勉強し、幾多の叡智溢れる書物や、見識高い恩師の教育に触れ、自分の人生と真正面から向き合う中で、『真理』が、そうするべきだと、教えてくれたのだ。
だがもちろん、親がキリスト教を押し付けていた10代の頃は、神や真理、ましてやルールさえも軽んじていた。そして、痛い目に合ったのだ。正直、『痛い目に合ったからといって自分の生き方を変えるのは女々しい』と思っていた私の頑迷な心が、パラダイム転換できたのは奇跡に等しい。そこには父親の死が、大きく関わった。
だがとにかく、今も昔も変わらないのは、『自分の人生は、すべて自分で決める』というものなのだが、決定的に違うのは、昔は、
自分の人生は自分で決める。自分のやりたいときに、やりたいことをやるし、本能の赴くままに、食事もして、飲み物も飲んで、性欲も、睡眠欲も満たす。法律も、常識も、マナーもルールも、守るつもりはない。
だってそれは、俺が決めたルールじゃないから。自分のルールで好き勝手に生きる。それが、自分らしく生きていくということだ。
と思っていたのが、今では、
自分らしく生きていくというのは、本能に身を任せ、衝動的に、刹那的に生きていくことではない。一次元で、有限のこの時間・人生を悔いのないように生きるには、建設的で、主体的でなければならない。
相変わらずルールに縛られるつもりはないが、原則を無視して無駄足を踏むことほど、時間を無駄にすることはない。自分が、自分で在る為には、あらゆる”力”に屈しないで、頑迷ではなく、頑固な意志が必要だ。
岩をも砕く頑固な意志でもって、生きていくうえで直面するあらゆる試練にぶつかっていく。そのときに本能や常識任せにしている人は、なんと諦めの早いことだろう。そういう人は自己防衛本能に打ち負け、屈したことを、人生の黄昏時に、後悔するのだ。
自分らしくこのたった一度の人生を生きていくということは、この世のどんな混沌、矛盾、理不尽、試練の壁にも屈せず、自分のプライド・誇り・矜持を失わずに、わき道にそれない強さをもって、生き貫くということだ。
そう考えるようになったのだ。
『真理(神・原則)』を軽んじていた過去と、重んじるようになった今。どちらが人生に悔いがなく堂々と生きれているかは、言うまでもない。難しいことはない。別に宗教を持つ必要はないのだ。私は一生持たない。だが、『真理(神・原則)』だけは絶対に軽んじてはならない。どんな方向からでも、知性を追えば追うほど、この決定的な事実に、たどり着くようになっている。
参照:『ソフォニアの書 第1章』
参照文献
ソフォニアの書 第1章。