キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
金に対する考え方は、人間にとって究極のテーマだ。お金の仕組みを作ったのは人間だ。他の一切の動物には、それがない。ここまで食い込んだお金の存在を、人間と切って離すことはもうできないだろう。だから、お金を憎んではならない。だが、お金を崇拝してもならないのだ。
前者は『偽善者』だ。おそらく彼らは、働くことが嫌なだけの怠け者か、人の為に尽くすことができない自分本位で器の小さい人間だ。なぜなら、お金がいらないというのなら、働いたお金を、すべて寄付すればいいからだ。発展途上国の子供たちは、今も尚まともな食事にありつけないでいる。そういう人たちが目に入らない、視野の狭い人間なのだ。
後者は『拝金者』だ。『お金があったら何もかも思い通りになる』と、物事を短絡的にしか考えられない、敗北者である。この世の表面のことしか見えない、盲目者である。だから必ず、人生に悔いを残すだろう。金を崇めたがためにないがしろにした、人間の心について苦しみ、悩まされ、蝕まれていくだろう。『一時的な膨張』に甘んじた愚かな夢は、いつか必ず、朽ち果てるだろう。
ではどうすればいいのか。憎むでもない。崇めるでもない。お金に対し、我々人間は、どのような態度で向き合っていけばいいのだろうか。それは、『愛』である。愛という意味を辞書で調べてみよう。
親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。いとしいと思う心。ある物事を好み、大切に思う気持ち。個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。
そう。憎むことと、崇めることの、ちょうど間にあるのが『愛』なのである。人の心と同じように、『お金』と向き合うべし。『お金』ができた本来の理由から決して目を逸らさず、それ以上にも、それ以下にも、価値を見誤ってはならない。
究極の話、『金』さえあれば、救えた命もあっただろう。『金』のせいで格差がつき、不当な人生を強いられることもあっただろう。だが、それでも金を憎んではならない。崇めてもならないのだ。それでは金に、支配されてしまう。人生を金に支配されてしまうのは、本来の人間の在るべく姿ではないのだ。そういうときは、長く生きるのが本当に重要なのかを、内省する必要がある。
byシェイクスピア
セミの命は一週間。キタキツネの命は3年。ある動物は、子供を産むのと引き換えに、自分の命を落とすという。また、エコロジー思想の先駆者 ヘンリー・デイヴィッド・ソローはこう言っている。
そして、人生最後の日を迎えたソクラテスは『幸せそうに見え』、『時によっては死の方が生より好ましい』と述べた。そしてこう言ったのだ。
『お別れのときが来た。君たちは生きながらえる為、私は死ぬために分かれるのだ。君たちと私のどちらがより幸運なのだろうか?答えることが出来るのは神のみである。』
この世には、『生きながらえる』という言葉がある。究極の選択だが、人間には、いやすべての生命には、生と死、そのどちらが最良の選択なのか、決断する選択肢を与えられている。確かに生きることはとても楽しい。子孫の成長も、人類の成長も、心から楽しい、最良のイベントだ。我々は、生にすがりつきたい。偉そうにこれを書く私も当然、人間を極めた者でもなんでもない、生きることにすがりついた、ただの人間の一人だ。
だが、一つだけはっきりしていることがある。『金』には、すがりついてはならないのだ。『金』に、心を支配されてはならない。『お金』も、『人』も含めた、『森羅万象』を平等に愛することが出来る。人生に成功者などという人がいるのであれば、そういう人のことを指すのではないだろうか。
参照文献
シラの書 第27章。
関連する『黄金律』
『愛があれば全ては解決する。』
『お金を稼ぐことは、良いのか。それとも悪いのか。』