キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
『差別』を辞書で紐解くと、ほとんど『区別』と大差ない内容になっているかもしれないが、とんでもない。今を生きる人間にとって『差別と区別』では、雲泥の差がある。
例えばマルコムXをはじめとするかつての黒人たちは、『差別』されていた。FacebookのCOO、シェリル・サンドバーグが訴えている『男尊女卑』も当然差別だ。 そして、 10歳以下の子供たちは、『小人用料金』や『子供用プール』等に『区別』される。 レディースデーは『男尊女卑』ではなく、『区別』だ。これでこの言葉の意味の違いを説明するには十分だろう。
では、『障害者』はどうだろうか。 これに関しては、この人物ほどこのテーマに適した発言が出来る人間はいないだろう。『五体不満足』で有名な、乙武洋匡氏である。彼は言った。(彼がそもそも『障害者』という概念を認めているかどうかは知らないが)
乙武洋匡
もしかしたら『やさしさ』でやっているつもりの『その配慮』は、『差別』になっているのかもしれない。
彼の洋服は特注し、彼の歩行手段には車椅子を用いる。これは大多数の『我々が普段、街でよく見かける人』と『区別』される発想だ。だが、同じ人間という決定的な部分で、我々はどれだけ、『差別と区別』の意味を理解できているだろうか。
そもそも、なぜ自分たち側が差別の対象になるという発想をしないのか。もし本当に差別がこの世に必要なのであれば、キリストとソクラテスを無実の罪で殺した『大衆』や、ルター、コペルニクス、ガリレオ、ピタゴラス、古今東西の幾多の清純で賢明な魂を『誤解』した、その他大勢の人の方が、その対象に相応しい。
参照文献
レビの書 第19章。
関連する『黄金律』
『他と違うことは恥ではない。誇りだ。』
『どれだけ生きるかではなく、いかに生きるかが重要なのだ。』
『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』
『「生きる」ということの本当の意味とは。』