キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
『すんなり』ということころが重要である。一昔前の、例えば15年前、15歳の頃の私だったら、これは『すんなり』入ってこなかった。当時の私のこの言葉に対する感想はこうだ。
慈悲
(いや、確かにそうだよ。もっと慈悲をくれよ。周りは、大人が、慈悲深くあるべきだろうが。)
謙遜
(そりゃそうだけど、まずは大人だよな。俺だけが謙遜をして、今までどれぐらい嫌な目に遭ってきたか。手柄を横取りされたり、真実を隠蔽されたり。)
柔和
(それはわかってるんだけど、周りがな。こっちが柔和で温厚でいても、ちょっかいを出してくるんだ。それにつけ込んでね。下手に出てりゃあってやつだよ。まったく、損だね。正直者が馬鹿を見るってやつさ。)
寛容
(許すってことなんだろうけどさ。そりゃあ許したいよ。でも、許せば許すほどつけあがってやりたい放題やってくるし、いわれのない誤解や揶揄、不当な評価をしてくるのは周りじゃないか。これらのことって、なんか全部嘘くさいけどな。)
その当時の私に与えられるテーマはまさに、 『責任転嫁』、『自分本位』という戒めの言葉だった。今こうして考えてみると、それが手に取るようにわかるのだが、当時の私は、そのテーマを恩師に与えられても、数年間は正直全てを理解できていなかった。(でも、親のせいでもあるしな)という考えは常に頭をよぎっていた。そして、『本当にその通り』だという事実もまた、事態を混乱させていた。しかし、少年時代は終わり、大人になるのだ。そんな時、もう一度このテーマについて考えてみるのだ。すると変わってくる。例えば、こう変わってくる。
慈悲
(慈悲を与えなければならない。この世には慈悲を与えてもらいたい人がたくさんいる。 かつての自分のように。)
謙遜
(原則として人は謙遜しなければならない。それは『傲慢』の対義だからである。 傲慢は罪だ。それに陥って破綻した人や企業がいくつあっただろうか。)
柔和
(柔和でいられないということは、 自分に自信が無いという事だ。格闘技や武道を習い、トレーニングをして心身を鍛えて、あるいは確かな一歩を積み重ねていれば、その自分を信じられないということにはならない。心が乱れて柔和でいられないなら、それは自分の努力が足りないだけだ。)
寛容
(人には事情がある。この世は諸行無常である。何一つ、ピタリとして静止しているものは存在しないのだ。人の心など、その『虚ろ』の代表の様なものである。だとしたらそこに腹を立てるのは筋違いであり、無知だ。寛容さを持てないということは、人の道から逸れたと自分を戒めるべきだ。)
私はただ、器が小さかっただけなのだ。プライドが高い私は、その事実を断固として受け入れることがなかった。しかし、見栄とプライドの違いを知ったり、無知の知を知り、知性を積み重ねると、 神=愛であることを知り、宗教への誤解も解け、 あるいは、人間の心の弱さや、過去の歴史の深い悲しみを知り、 私の器は少しずつ大きくなっていったのである。その大きくなった器に、以前はこぼれてしまっていたものが入った。それが、 慈悲、謙遜、柔和、寛容である。
参照文献
コロサイ人への手紙 第3章。