キリスト教の礎 イエス・キリスト
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内省
聖書は2000年も前の本だ。よく、昔の人の意味不明な行動を不思議だと思うことがあるだろう。 雷が『神の怒り』だとか、『生贄で怒りを鎮めよう』だとか。 無知な時代、独特の発想は、知識ある時代の人間から見れば滑稽である。そして我々も当然、2000年後の人間に同じように言われることだろう。ということで重要なのは『当時の言い回し・常識』ではなく、 『エッセンス(本質)』だ。
例えば、この文章をよく見てみて、どう思うかだ。
『その時、神がお怒りになられた。立ち込める黒く怪しい曇り空の中に、一瞬、光る龍の姿を見た。 私は恐怖で足がすくんだが、確かにこの目で見たのだ。あんなもの、見たことがない。きっと、あの人間の暴挙に、神が龍の姿となって舞い降りてきたに違いない。私はそう確信した。
─そのときだ。
この世のものとも思えない轟音と共に、龍の神、つまり龍神があの人間の家に降りた。 次の瞬間には、龍神は天に帰った。私は恐る恐るその家へ近づいた。何と、家が焼き尽くされ、あの人間が倒れているではないか。龍神があの人間の暴挙に怒り、そして命を奪っていったのだ。私は神を見た。神の怒りを買ってはならない。神の怒りを買う様なことを、してはならないのだ。』
これは、『雷』の話である。つまりこの話の『エッセンス』は、雷についてである。
科学も知識も今よりもうんと発達していない頃は、当然『雷』についても説明できない。そういう風に、『あるエッセンス』を、それを受けた当人が『正確に説明できる』とは限らない。そう考えると、2000年も前の本をそのまま鵜呑みにすることは、 いささか注意不足になるかもしれない。しかし『エッセンス』はいつの時代でも同じことだ。だとしたら聖書の言う『神の国』のエッセンスとは、いったい何のことだと思うか。
私が参考にしている超訳本の著者は、『神=愛』だと言う。 私もそれに反論はない。男女が愛し合い、人や動物が笑顔で共生し、温かい家族が食事をする。そこには『愛』がある。そこには『神の国』が広がっているのだ。
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
参照文献
ルカによる福音書 第17章。
関連する『黄金律』
『愛があれば全ては解決する。』
『自分の心と向き合った人間だけがたどり着ける境地がある。』