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葛飾北斎とはどんな人物か

葛飾北斎とは

日本画家1760年10月31日生誕(?)。北斎の描いた冨嶽三十六景は、2019年度からパスポートのページ画として採用されました。

 

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葛飾北斎は、画家であり、デザイナーであり、イラストレーターであり、アニメーターであり、エンターテイナーでもありました。200年以上前に北斎が描いた『北斎漫画』にある『コマ割り、ギャグ、擬人化』という技法は、現代の漫画、アニメの原点とも言えるもので、事実、水木しげる、松本零士、手塚治虫等の著名な漫画家が、この『北斎漫画』のファンであることを公言しています。

 

そう考えるとこの『動物に表情をつける』技法である『擬人化』は、もしかしたらあの『ミッキーマウス』の発想のルーツにもつながっている可能性もあるいうことになります。

 

ちなみに北斎の娘『応為』は、北斎が『おーい』と呼んでいたことから名づけられたと言いますが、北斎はこの応為に対し、

『女性の描き方は応為には敵わない。』

 

と言ったそうです。また北斎は、生涯で93回も引っ越しをし、ときには一日に3回も引っ越すことがありました。その理由として北斎が言ったのは、

『掃除をする暇あるなら、絵を描きたい。』

 

というものだったそうです。ですから、北斎が引っ越した後の家はゴミ屋敷状態だったと言います。それだけ、絵を描くことだけに集中した人間だったということです。

 

北斎は19歳の時、当時役者絵の第一人者だった『勝川春章』に弟子入りしますが、

『枠にとらわれた絵を描きたくない。』

 

と言って、狩野派、琳派など様々な流派から絵を学びました。ただし、ご法度だったその行為によって、勝川派を破門されます。しかし、それでもめげずに北斎は、その後も西洋画、中国画などの様々な技法を学び、自分の能力を磨き続けました。そして、50歳を過ぎた頃に北斎はこう言いました。

『俺はもう誰からも学ぶことはない。俺の先生は自然だけだ。』

 

そうして北斎は、どこの流派にも属さないと宣言しました。これは逆に言うと、『50歳過ぎまで様々な技法を学び続けた』ことを意味し、守破離の『守』である基礎・土台を徹底的に積み上げたということができます。これはまさに当サイトがまとめる第27の黄金律、

 

『基礎工事をしない建築物、基礎土台をおろそかにする人間。どちらもその限界は、知れている。』

 

に当てはまる事実です。そして、第11の黄金律、

 

『この世には、自分にしか歩けない道がある。その道を歩くのが人生だ。』

 

の重要性を理解したと言えるでしょう。北斎が描いた『冨嶽三十六景』の『大波』は、当時の人々に、『波がこんな形をしているわけがない』と揶揄、嘲笑されました。しかし、現代に実在する『1/5000秒』のハイスピードカメラで波を撮影した写真は、この『大波』に酷似していることが判明しました。

 

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これによって北斎は、『天才的観察力の持ち主』だけでなく、もしかしたら『瞬間記憶能力』の持ち主だった可能性があるとも言われています。

 

北斎は日本よりも海外からの評価が高く、ゴッホ、モネ、ドガ、エミール・ガレ等に大きな影響を与えました。また、2017年2月に行われたアメリカのオークションでは、版画世界最高額の1億円で北斎の絵が落札され、世界三大博物館である『大英博物館』では、『北斎ー大波の彼方へ』特別展が開かれました。

 

また、アメリカの歴史ある雑誌『ライフ誌』で発表された、『この1000年で最も重要な功績を遺した世界の人物100人』の86位に、唯一の日本人として掲載されました。ちなみに1位~5位は、以下の5人です。

 

 

絵を描くことだけに集中した北斎は、まさに当サイトがまとめる第38の黄金律、

 

『一つのことに集中する人間だけが手に入れられる圧倒的な力がある。』

 

に当てはまるわけです。

 

晩年、自分のことを『画狂老人卍』と名乗った北斎は、その枠にとらわれない唯一無二の生き方を貫くことで、この世の歴史に『生きざま』を刻みました。その生きざまはもしかしたら、北斎が残した一つの『芸術』なのかもしれません。

 

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