日本の軍人(海軍大将)。男。山本五十六は1884年4月4日に新潟県で旧越後長岡藩士、高野貞吉の六男として生まれました。当時の名前は高野五十六。名前の「五十六」は出生時の父は親の年齢から取られており、本人はその由来を生涯大変嫌っていたと言われています。(画像)
名言一覧
『どんなことでも部下の失敗の責任は長官にある。下手なところがあったらもう一度使う。そうすれば必ず立派にし遂げるだろう。』
『人は誰でも負い目を持っている。それを克服しようとして進歩するものなのだ。』
『諸士は凱旋したのではない。次の作戦に備えるために、一時内地に帰投したのである。』
『私にやれと言われれば、1年や1年半は存分に暴れてご覧にいれます。しかし、その先のことはまったく保証できません。』
『百年兵を養うは、ただ平和を守るためである。』
『苦しいこともあるだろう。言いたいこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣きたいこともあるだろう。これをじっと我慢していくのが男の修行だ。』
『俺が殺されて、国民が少しでも考え直してくれりゃあ、それでもいいよ。』
『あと百日の間に、小生の余命は全部すりへらす覚悟に御座候。』
『人生の窮極は真たるべく、之に達するは誠のみ。』
『勝つ時の来るのを、長時間、待って居る忍耐が大いに大切なのだ。』
『人はみな、それぞれ与えられた天職がある。職分を如何に巧みに処理するかによって、その人の値打ちが決まる。』
『天才よりも努力に依って鍛錬した入神の技術の方が遥かに勝っている。』
『自らを処する厳、他を処する寛。』
『リンカーン伝を読みたまえ。人間として偉い男だと思う。』
『怜悧なる頭には閉じたる口あり。』
『男子には大目的を貫徹することが一番で、それ以外は枝葉末節だ。』
『病気で寝ているとき、他人の親切がほんとうにわかる。その気持ちを大切にしろ。』
『常在戦場。』
『やってみせ、言って聞かせてさせてみせ、褒めてやらねば、人は動かじ。』
『修養訓練、自戒自省という様なことを一生懸命に心がけるべき。』
『人は真剣になると、自然に口数が少なるなるものだ。』
『取れぬ先の豊作などは、油断大敵。』
『唯この戦争が何十年続くかと思ふのとき、宇宙の一小黒子』
『小敵たりとも侮らず、大敵たりとも懼れず。』
『国大なりといえども闘いを好めば必ず亡ぶ。天下安しといえども戦いを忘なば必ず危ふし。』
『君は勤勉努力して産をなされたそうだが、国家人類の為、その財を善用して、始めて人としての意義がある。』
『国産品を使え!でないと日本の航空は独立もしないし、発達もしない。』
『中才は肩書によって現れ、大才は肩書を邪魔にし、小才は肩書を汚す。』
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夏目漱石の名言・格言一覧
山本五十六とは(画像)
日本の軍人(海軍大将)。男。山本五十六は1884年4月4日に新潟県で旧越後長岡藩士、高野貞吉の六男として生まれました。当時の名前は高野五十六。名前の「五十六」は出生時の父は親の年齢から取られており、本人はその由来を生涯大変嫌っていたと言われています。子供時代から負けず嫌いだった山本五十六は、甥である高野力の死を期に軍人を目指し、1901年に海軍兵学校へ入校します。
1913年には両親の死を経験し、同年12月には海軍大学校への入学を果たします。在学中に牧野忠篤の取りなしで旧長岡藩家老の山本家を相続し、名前が山本五十六となります。その後海軍では軽巡洋艦「五十鈴」の艦長などを務めたのち、海軍次官に就任。1929年には海軍少将としてロンドン軍縮会議にも参加しています。その際、山本五十六と山口多聞は軍縮案に反対し、会議を混乱させました。太平洋戦争時には第27代連合艦隊司令長官に就任し真珠湾攻撃を行いますが、この奇襲攻撃に関しては山本五十六の本意ではなく、宣戦布告の遅延を起因とする伝達ミスがあったために起きたと言われています。
1943年4月18日に前線視察の際にアメリカ軍の航空機によって搭乗機を撃墜され、戦死。士気の低下を避けるため、その死は一ヶ月以上秘匿されました。また公式では機上で銃弾を浴びて即死したと発表されていますが、死後の状態から搭乗機撃墜後もしばらく生存していたという異論も存在しており、最期に関する明確な状況は依然として明確になってはいません。