ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- 『キングダム』の舞台と『孔子』の思想の関係は?
- 秦の始皇帝がたった十数年で亡んだ理由は?
1.孔子は紀元前552年、始皇帝は紀元前259年ですから直接関係はありませんが、儒教は強く意識されました。
2.儒教を軽んじて、法家だけを重視したからです。
ハニワくん
博士
儒教の考えは『徳』による支配の為、支配者にきちんとした振る舞いを求めます。
しかし、その考え方が気に入らなかった秦の始皇帝は、儒教を弾圧します。始皇帝は、文字や貨幣を統一して、統一された中国全体のシステムをわかりやすくしますが、それだけじゃなく、『焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)』という言論や思想の統制を目的とした措置を行ってしまったのです。そして法家(法律)を重視し、儒教を弾圧したために、十数年しかもたなかったわけですね。その失敗を生かし、秦の統一帝国を継承した漢は、儒教と法家の両方の理論をあわせて国家を運営すべきだと考え、400年以上も続きました。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
孔子の思想
『儒教』を作ったのは孔子ではなく、対立していた『墨子』だった?
上記の記事の続きだ。このようにして『儒教』ができたが、孔子はまさか自分のまとめた教えが『儒教』という名で広がっているとは思っていないわけである。さて、下記の孔子の記事にも書いたが、孔子が統治の基本理念においたのは『仁』である。仁は最高の『徳』であり、徳を積むことこそが仁に到達する道筋であると説いた。
徳を積むためにまず成すべきは『学』にあると孔子は示している。孔子は、こうした学びの先にあるものが『知』であるとした。学ぶことによって正しい道を選ぶ判断の出来る知を獲得するのだと考えたのである。
また、本場韓国の本では、儒教を宗教としない世界の考え方には首をかしげるが、世界的に見ると孔子の教えは宗教というよりも哲学。孔子はあくまでも、人間を超越した絶対者、神、天の信仰に生きるという態度志向をとらず、徹底して人間の中に天を発見し、人格の権威と自由とを確立しようとした。いわゆる宗教家ではなく、偉大な道徳家であり、実践哲学者というべきだと主張する儒学者もいるわけだ。
ここに出てきた『天を発見』するということだが、孔子がなぜこのような発想をしたのかということを見ていこう。紀元前1600年~1046年にあった『殷(いん)』という中国の国があった。殷は『天の神の意=帝』という図式を崇拝していたが、『周』という国の文王によって、紀元前1046年に亡ぼされる。
この天命と先ほどの『徳、仁』の関係を表すとこうなる。
とにかく、徳があるかないかが重要で、殷の君主は徳がないから引きずり降ろされたという考え方になるわけだ。そして徳をためると仁に到達する。更に文王は、周の国をより良い国にしようと考えた。まず何よりも祖先への『礼』を尽くすことを心掛け、
- 天
- 地
- 穀物
の3つを祀った。やはり当時の農耕社会を考えると、このような考え方になるのは当然だった。このような考え方を軸に、周の国は平和で、豊かな国になるように努めた。
あっというまに亡んだ秦
そしてこの周の考え方は、孔子が息をした紀元前500年頃にも理想のモデルとなった。だが、周の国は紀元前771年に亡び、中国は戦乱となる。そして紀元前221年、秦の始皇帝が中国を平定するわけだ。『キングダム』の舞台となる時代である。
この500余年間を春秋戦国時代と言う。
この漫画は、秦の始皇帝がその座に就くまでの道のりを描いた物語で、多くの日本人がその過程を楽しんでいるが、実はこの話には裏がある。『世界がわかる宗教社会学入門』にはこうある。
儒教は、徳や礼を重視し、法よりも慣習によって統治します。しかしそれは理想論で、現実には犯罪に対処しないといけません。そこで、法家の考え方も、取り入れた方がよい。秦は、法家を重視し、儒教を弾圧したために、十数年しかもたなかった。むしろ、儒教と法家の両方の理論を、あわせて国家を運営すべきだ。秦の統一帝国を継承した漢は、そのように考えたと思います。
儒教の考えは、徳による支配ですから、支配者がしっかり行動していれば、ほかの人々の行動も正しくなると考える。しかし、いったいどうやって正しくなるのかというプロセスの論理がなく、マニュアルもありません。法家は、法律といったかたちで、そのマニュアルを用意します。儒教と法家が結び付くことで、強力な統治のツールが生まれました。
キングダムは、始皇帝が中国を統一したときに終わる予定なのだが、しかし実際には終わった後の秦は少し雲行きが変わるのだ。見事史上初の中国統一をした秦は、法家を重視し、儒教を弾圧したために、十数年しかもたなかった。このようにして、孔子も理想とした『周』の考え方は、一時排斥されたのである。
孔子の考え方の核心にあるのは『仁』だが、実はこの仁というのは、『差別的愛』だった。『身内への愛>他人への愛』という図式で、まず何よりも身内を尊重するべきだという考えだった。そして孔子は、すべての人がこの『仁』と『徳』を求め、それを備えた人間が為政者となれば、国に平和がもたらされるという発想をした。
それに対し、対立した墨子は、儒教が教える『家族愛』は『差別愛』であると主張し、『兼愛』を唱えた。
等しく愛すること。
この考え方はキリスト教で言えば『博愛』の考え方に該当する。従って、この点で言えば確かに家族をまず何よりも優先する孔子の考え方よりは、墨子の方が上の境地にあるという見方もできそうである。
ただしマザー・テレサがこう言い、
こうも言った様に、
孔子はまず何より自分の家族を大切にすることを『すべての人々』が重んじたなら、そこにあるのは結果的に世界平和になる、という考え方を持っていたわけだから、そうなるとマザー・テレサの考え方と一致することになる。
また、孔子は3歳で父親を亡くし、24歳で母親を亡くしている。儒教が両親や祖先を重んじ、家族愛を優先することを強く主張している理由には、孔子の親に対する深い思いも影響している、という見方が強い。とにかくこのようにして『仁』という差別愛を主張した儒教は、始皇帝が支配した中国からは排斥された。始皇帝は儒教を軽んじ、『法律』を重視したのだ。
だが秦は、法家を重視し、儒教を弾圧したために、十数年しかもたなかった。つまり、法律だけでも駄目、儒教だけでも『よくわからない(目に見えない)』から駄目、だから秦の統一帝国を継承した『漢』は、これらを統合して考え、最強の統治ツールを作ろうとしたわけだ。
為政者に求めた儒教
孔子は、一人一人が利他的になり、礼を重んじて徳を積み、仁を得ることが出来れば、この世に法律や刑罰などは必要ないと考えた。儒教の考えは『徳』による支配の為、支配者がしっかりしていれば法律など必要ないと説いている。だがそれを受けた始皇帝は、
始皇帝
という態度でもって、それを排斥したのである。また、おそらくは『それでまとまらなかった』こともあっただろう。目の前で戦争が行われている動乱の時、
始皇帝
と言っても聞かなかった。まとまらなかったのだ。下記の記事では、農耕社会に移り、そこに秩序を必要とするときに、人をまとめるときに『神』の存在が必要だったと書いたが、この春秋戦国時代にあって儒教的発想も、その考え方も、人々に通用しなかったわけだ。
韓非子と法律
だから始皇帝は『法律』を重視した。そこで登場するのが韓非子である。
人間は孔子の言うような高潔な存在ではない。『利己』に走り、損をすることを回避しようとする。それが人間の本性というものである。従って、法律によって刑罰を整えれば、人はそれを回避しようとして、犯罪を予防できる。法さえ完備していれば、国の秩序は保たれるとして、法の重要性を説いたのだ。
韓非子
韓非子
と主張したのである。始皇帝は韓非子のこの考え方を取り入れ、法家を重視し、儒教を弾圧したのだ。だが秦は、法家を重視し、儒教を弾圧したために、十数年しかもたなかった。つまり、結局は法律だけでは世は支配できなかったのである。
人の善い部分に目を向けた孔子。人の悪い部分に目を向けた韓非子。結局、そのどちらか一方に目を向けても、世界に平和は訪れなかった。そのあとも様々な考え方で理想を求める人が次々と現れるが、その他の宗教や思想家等も含め、このようにして常に思想に多様性が現れるのは、ズバリ『彼らが的を射ていないから』だと言えるだろう。
つまり、孔子の言うように人間にはもっと可能性がある。だが、韓非子の言うように、人間というものは愚かな生き物でもある。その両方の事実が共生しているのが人間なのだ。つまり、最強の統治ツールを取り入れた『漢』は、いい判断をしたことになる。この漢の初代始皇帝は『劉邦(りゅうほう)』である。彼の話はまた今度にしよう。
ただ、先ほどの最強の統治ツールを取り入れたはずの中国を、現代の人が見て本当に『平和な国』だと思うだろうか。そしてそれは中国だけではない。神道や武士道が混じっている日本、キリスト教が混じっている欧米諸国、イスラム教が混じっているアラビア諸国。ヒンズー教が混じっているインド諸国。そのどの世界に目を向けても完全な平和はなく、不和や不義、争いは行われている。
そこで私が考えたのが以下の記事だということだ。この記事でたどり着いたのは、これらすべての問題を解決する『鍵』なのである。もっとも、結論を先に言ってしまえば、すべての人がこれを実践できないのなら、この世に世界平和が訪れることは永久にない。今までありとあらゆる偉人たちが現れては新しい思想を見出し、結局実現できなかったように。
次はその『次々と現れた思想家』たちの話だ。
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参考文献