名言と真剣に向き合って、偉人の知恵を自分のものにしよう!
運営者
考察
『救われたい』という人が、『救いの道』を探し求めているとしよう。誰かの助言でも、なんたらという宗教でも何でもいいが、とにかく自分は、前に進むために今の現状を打破したいと考えていて、しかしそれがなかなか出来ない。外部要因の力を借りて何とかしたいと考えているのである。
そして、『救いの道』らしき道を発見した。どうもそこにいる人たちは、それらの道案内人のことを『神』と言うらしい。従って、自分もその呼び名を使うことにした。『神』が何であるかを理解してないが、周りがそう言うから、そう思うことにしたのだ。
さて、『救いの道』というのは、どういう道だろうか。今いる現状から、どこか違う場所へと誘ってくれる、神が使って出現する、魔法の道だろうか。そこには『天国』があって『平和』があって、『神』がいる。そういう、この世のものとは一切無縁の、楽園(パラダイス)なのだろうか。では、ヘルマン・ヘッセの言葉をよく見てみよう。
『自分自身の心に通じる道』と言っている。つまり、もうすでに『天国』という、例の雲の上にあるような、そういう概念とは違うものを指していることがわかる。あれは『上』にある印象だが、これは『内』にあると言っているのだ。しかし、次に『そこにのみ神があり、平和がある』と言っていることで、(いや、やはり天国か)と思ってしまいがちだが、実際はもう前述している通りで、それは天国への道ではない。『自分自身の心に通じる道』である。
つまりこういうことだ。
『自分自身の心に、神があり、そして平和がある』
どういうことか。それは簡単な事である。まず、なぜ、『神』が人間の様な形をしていて、頭にわっかが浮いていて、羽のようなものを背中につけ、色は白く、ひげは長く、ローブの様なものを着ている、と思い込んでしまったのだろうか。
神は、『ある』のだ。『いる』のではない。だとしたら全てに合点がいく。自分の心に神が『ある』のも、平和があるのも。神があるときに心の平穏が訪れ、神がないときには心が乱れている。
聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。
『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』
つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。
その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。更に言えば、昨今一部の狂信者が世界を騒がせているが、イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。
『神の為に奮闘する』ことを意味し、つまり、その『神』というものは、しばしば『愛、真理』と『=』であると考えられるわけで、例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。
つまり、『神=真理=聖性=愛』。自分の心がこれらで満たされているとき、人の心には平和が訪れるのであり、その逆の要因に優位になられるのであれば、人の心は虚無となり、荒んでいくのである
※これは運営者独自の見解です。一つの参考として解釈し、言葉と向き合い内省し、名言を自分のものにしましょう。
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