ハニワくん
先生
中国史上最も古い国は?わかりやすく簡潔に教えて!
紀元前1600年頃からあった『殷(いん)』が王道の答えですが、『夏(か)』の可能性があります。
ハニワくん
博士
紀元前1900年頃に『夏』という王朝があった可能性があります。
14世17代、471年間続き殷に滅ぼされたと記録されています。司馬遷が編纂した歴史書『史記』には、
兎(う)が夏王朝を建国したものの、暴君であった17代桀王(けつおう)が人望を失ったため、湯王(とうおう)がこれを討伐して、殷王朝を建国した
とあります。伝説上の王朝とされてきましたが、これが本当なら『夏』が中国で最も古い国ということになります。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
中国『三代』
夏→殷→周
上記の記事の続きだ。少しおさらいをしよう。中国には『三代』という言葉があり、それは、
- 夏(か)
- 殷(いん)
- 周
という中国史で最も古い3つの王朝のことを指す。つまり、中国で最も古い王朝は、『夏』ということになる。だが、この夏という王朝は、長い間伝説の国だといわれていて、存在自体が怪しかった。そこで、多くの文献では中国最初の王朝は『殷』ということになっている。
河南省で発見された二里頭遺跡が夏王朝の跡地だったと指摘されている。
ここで、下記の記事に書いた中国の歴史について見てみよう。
『儒教』を作ったのは孔子ではなく、対立していた『墨子』だった?
殷が、周によって滅ぼされるとある(これがもしかしたら、夏も、殷によって滅ぼされたかもしれないということになる)。こう書いたわけだ。事実、多くの参考書ではまだ『夏』ではなく『殷』が中国で最も古い王朝として扱っている。その理由は、やはり確固たる理由があるかないかという差だ。夏はまだ、伝説レベルの域を出ていないのである。
『夏』か『殷』か
だが、司馬遷が編纂した歴史書『史記』には、
兎(う)が夏王朝を建国したものの、暴君であった17代桀王(けつおう)が人望を失ったため、湯王(とうおう)がこれを討伐して、殷王朝を建国した
という旨が記述されている。
このような流れが存在している可能性があるということだ。そう考えると、『17代』も続いたわけだから『夏』という王朝はなかなか長く続いた王朝だったということになる。だが、そのあとに続いた『殷』は、30代続いたわけだから、その半分程度だったということになる。どちらにせよ、
- 桀王(夏)
- 紂王(殷)
この両者は『うぬぼれた』ことによって転落した。彼らもまた、下記の黄金律を支配することができなかったのである。
『人間が転落するタイミングは決まっている。「得意時代」だ。』
周の『文王』と『武王』
その殷を滅ぼした周の『文王』だが、参考書によっては『武王によって滅ぼされる』と記されている。では一体、そのどちらが殷を滅ぼしたのだろうか。実は、彼らは親子だった。そして文王は、殷の『事実上の創始者』であり、息子である武王は、『表向きの創始者』。つまり、親である文王は、影の黒幕のような、相談役のような立場にあったと考えられる。
文王 | 殷の『事実上の創始者』 | 父親 |
武王 | 殷の『表向きの創始者』 | 息子 |
であるからして、どちらが滅ぼしたと考えてもそう変わりはないのである。
[武王]
この時、『呂尚(りょしょう)』という人間が彼ら親子の軍師を務め、王朝交代の一番の功労者となった。一説では、彼は一度、紂王に仕えていたことがあるらしいが、紂王の愚かな態度に愛想がつき、立ち去ったという。殷を破るにはこの男の存在が必要だったと考えられるくらい、重要な立ち位置にいた人物である。
呂尚はのちに『太公望』と呼ばれ、『斉(せい)』の始祖となる。
最盛期を誇った前半の段階 | 西周 |
弱体化した後半の段階 | 東周 |
周は以上の表のように、『西周(さいしゅう)』と『東周(とうしゅう)』と分けて呼ばれている。西周の時期は勢いがあったが、東周時代には衰退化していく。
美女に溺れた王
そしてなんと、この周が滅んだ理由も、美女に溺れた王の存在があったというのだ。
『傾国の美女』という言葉は、殷や周のこうした故事から生まれた。
参考書には書かれていないが、周王朝最後の王は赧王(たんおう)である。Wikipediaにはこうある。
王の在位は59年に及んだが紀元前256年、西周は諸侯と通じて韓と交戦中の秦軍を妨害したため秦の将軍楊摎の攻撃を受けた。西周の文公(武公の子)は秦へおもむき謝罪しその領土を秦に献上した。このため赧王は秦の保護下に入ったがまもなく崩御し、程なくして西周の文公も死去した。西周の文公が死去すると、その民は堰を切ったように東周へ逃亡し、秦は九鼎と周王室の宝物を接収し、文公の子を移した。こうして、秦が王畿を占拠したことで、西周と周王室本家は滅亡することとなった。
だが、参考書『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた』に書かれているのは、
西周も、美女に溺れた王によって弱体化し、異民族の侵入によって都を奪われたという故事があります。
だ。『西周の最後の王』とは書かれていない。そこで、『エリア別だから流れがつながる 世界史』を見てみる。すると、
前770年、周王朝も異民族の侵入によって衰退し、諸侯が各地で勢力を伸ばして覇権争いが進行。斉や宋らが雄を競い合うという春秋時代が到来した。
とある。つまり、『異民族の侵入』というキーワードで考えるなら、紀元前256年の王である『赧王』ではなく、紀元前770年の王である『携王(けいおう)』の可能性が高いと考えられる。
どちらにせよ、
- 桀王(夏)
- 紂王(殷)
- 携王(周)
中国『三代』のすべての王朝の最後の王が、あの黄金律に支配されて滅亡してしまったのである。黄金律で分からない人がいるなら、偉人の言葉に置き換えよう。古代ギリシャの詩人、イソップは言った。
そういうことなのである。『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書 公立高校教師YouTuberが書いた』にはこうある。
『美女に溺れた統治者が、国政をおろそかにして、国を亡ぼす原因となる』というパターンは、このあとの中国史でも繰り返されることになります。
黄金律に逆らえる人間はいない。
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