ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- カエサル(ジュリアス・シーザー)は何をした人?
- クレオパトラは何をした人?
- アウグストゥス(オクタウィアヌス)は何をした人?
1.ローマで絶大な支持を得て、『ローマ帝国』の初代皇帝になろうとした人です。
2.カエサルの愛人となり、息子を王位に就かせようとして色々と計画した人です。
3.カエサルが暗殺された後に『ローマ帝国』の初代皇帝になった人です。
ハニワくん
博士
長い間(紀元前509年~紀元前27年)ローマは王がいない共和政でした。
とある参考書によると、当時の臨時の最高職であった『独裁官』を終身の『終身独裁官』に変更し、自らその役職に就くことで事実上の『王』になろうとしたカエサルは、共和制を守ろうとする人々から反発を受け、それで暗殺されたとあります。しかし、違う参考書にカエサルが、
長年、共和制が続いてきたローマにあって、人々はカエサルが王となることに納得しないだろう
と考えていたとあるので、本当のところはわかりません。しかしどちらにせよ言えるのは、カエサルは身内に暗殺され、その暗殺者の中の一人には、愛人セルウィリアの子供、マルクス・ブルートゥスの姿もあったということです。そしてあの名言が生まれたわけですね。
カエサル
クレオパトラは『自分の魅力で男を操って出世する』という野心家だったかもしれません。カエサルの愛人となり、息子を王位に就かせようとしたり、カエサルの死後も権力者と手を組んで誰かを殺害させたりと、自分の美貌に自信がある野心家の女性が取りそうな行動を取った女性と言えます。彼女は『世界三大美女』に数えられていますが、それはもしかしたら、『本当の美女』というよりは、『美貌を使ってここまで大きなエネルギーを動かした人はそういない』ということかもしれません。
オクタウィアヌスは、カエサル亡きあとのローマをまとめた人です。彼の養子でもあったオクタウィアヌスは、その元老院から『アウグストゥス(尊敬すべき人)』の称号を得て、あらゆる権利を付与され、『帝政』となりました。カエサルの時には王の存在をあれほど拒絶したのに、
アウグストゥスなら大丈夫
だと思い、『帝政』を受け入れ、そして彼自身もそれに応えて、国に尽くしたわけですね。そして実際に彼は国の為に尽くし、彼自身は皇帝の宮殿とは程遠い質素な家に住み、更には自分のお金を使って市民に食料を配ったりして、国と国民に尽くしました。
- 圧倒的な攻撃力で帝国の礎を築いたカエサル
- 『ローマ帝国』の初代皇帝になったアウグストゥス
『ローマ帝国』を創ったのは、そして『ローマ帝国』の英雄は一体どっちだったか。おそらく、その両方だと言えるかもしれません。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
カエサル(ジュリアス・シーザー)
ローマ帝国(ポエニ戦争)→カエサル・アウグストゥス時代
世界史上最高の名将『ハンニバル』に勝利した『大スキピオ』とローマ反乱の象徴『スパルタクス』
上記の記事の続きだ。ローマの人々はそうした混乱を治める人を求めるようになった。その中で出てくるのが、
- クラッスス
- ポンペイウス
- カエサル(ジュリアス・シーザー)
といった人物たちだった。
[カエサル]
三頭政治
彼らは『三頭政治』という、少人数で国を治める仕組みが成立した後に、『第1回三頭政治』を開始した。
クラッススはスパルタクスの反乱を治める実力者で、大富豪だった。彼の父のライバルにマリウスという政治家がいたのだが、降伏するくらいならと、自決をするほどだった。そうした影響もあって、負い目を感じた人物が動いて、彼の元に財産が流れるような動きが見られたのだ。そして、金の力でカエサルの借金を肩代わりして、三頭政治に参加していた。しかし、彼はパルティアの遠征であっけなく戦死してしまう。『金持ち』の異名を持った人物だった。
ポンペイウスは、カエサルのライバルだった。しかしそれは最後の話で、最初は違った。そもそもこの3人は、利害が一致していたので、元老院に対抗しようとして三頭政治を密約として行ったのだ。更に絆を深めるため、ポンペイウスはカエサルの娘ユリアと結婚する。
ちなみに、カエサルの叔母の名前もユリアである。先ほどのマリウスの妻だった。
しかし、紀元前54年にユリアが産褥(さんじょく)で死ぬと、カエサルとポンペイウスの間に亀裂が入り、2人は敵対することになってしまったのだ。
つまり、難産によって死亡。
ガリア戦役
その4年前、紀元前58年~51年にあったのは『ガリア戦役』だ。カエサルはこの戦いによってローマから大きな支持を得た。カエサルは、
- ビブラクテの戦い(対ヘルウェティー族)
- ウォセグスの戦い(対ゲルマン人)
- アクソナ川の戦い(対ベルガエ人)
- サビス川の戦い(対ネルウィー族ら)
- モルビアン湾の海戦(対ウェネティー族ら)
- 第1次ゲルマニア遠征(対ゲルマン人)
- 第2次ゲルマニア遠征(対ゲルマン人)
- アウァリクムの戦い(対ビトゥリゲス族ら)
- アレシアの戦い(対ガリア連合軍)
の戦いに勝利。実に『13戦9勝』という結果でガリア諸部族たちとの戦いに勝ったのだ。最後の『アレシアの戦い』は、強敵ウェルキンゲトリクスに苦戦した。部族連合軍を率いてローマ軍に抵抗し続け、丘の上の街アレシアに堅固な要塞を築く。しかしカエサルは巧みな戦術を用いてこれを撃破。その戦術には、援軍を阻止するための砦、罠、障害物等、徹底的に考え抜かれた戦略があった。
[フランス人画家リオネル・ロワイヤルによる1899年の作(ル・ピュイ=アン=ヴレのクロザティエ博物館所蔵) カエサル(右・赤のトーガ)に降伏したウェルキンゲトリクス(左・馬上)]
総決起した34万ともいわれるガリア連合軍に対し、わずか5万のローマ軍が打ち勝ったのは、強固な包囲陣を築いたカエサルの戦術にあった。
こうして民衆の絶大な人気を集めていたカエサルが、ローマの絶対権力者になる。冒頭の記事で世界史上最高の名将『ハンニバル』に勝利した『大スキピオ』について触れたが、彼のようにカエサルも、ローマで絶大な支持を得ることに成功したのだ。
カエサルに対する2つの評価
しかし、とある参考書によると、当時の臨時の最高職であった『独裁官』を終身の『終身独裁官』に変更し、自らその役職に就くことで事実上の『王』になろうとしたカエサルは、共和制を守ろうとする人々から反発を受ける。冒頭に書いたように、共和制というのは君主を持たない政体、君主制ではない政治体制だから、『王』の存在は邪魔だったのだ。
紀元前44年3月15日。カエサルの妻カルプルニアは、
カルプルニア
とカエサルに言った。カエサルも体調が優れなかったらしいが、暗殺者の一味に巧みにおびき出され、元老院に出かけてしまった。そして、気づけば彼の周りには数名の男たちの姿が。殴る蹴る刺すの暴行を受けたカエサルは、全身23か所を刺され、息絶えたのだった。
だが、また違う参考書にはこうある。
冠を戴く直前、カエサルは咄嗟に拒否する。王権への渇望はあるものの、長年、共和制が続いてきたローマにあって、人々はカエサルが王となることに納得しないだろうと、判断したのだ。
民衆に絶大な人気を得ている人物が、民衆の気持ちを把握していないということがあるだろうか。そう考えると、この後者の参考書の方が、彼の細かい心情を押さえていると言えるかもしれない。
『ブルータス、お前もか』
暗殺者の中には、カエサルの長年の愛人セルウィリアの子供、マルクス・ブルートゥスの姿もあった。彼の息子だと噂されるほど近しい関係にあったはずのブルートゥスは、実はその暗殺のリーダーだったのだ。
カエサル
そうしてこの名言が生まれたのである。
[「カエサルの死」(ヴィンチェンツォ・カムッチーニ)]
つまり、彼の周りにいた女性は、カルプルニアだけではなかったのだ。
- カルプルニア
- セルウィリア
- クレオパトラ
最後の人物を知らない人は少ないだろう。『世界三大美女』に数えられる、エジプト最後の女王、クレオパトラである。
クレオパトラ
[クレオパトラ]
ある日、敗走するポンペイウスを追ってエジプトにやってきたカエサルのもとに、船でカーペットが運ばれた。その中には、半裸に近い姿のクレオパトラがいて、カエサルはその姿を見て彼女に一目惚れしてしまう。
彼女の名言にこういうものがあるが、確かに彼女は側近たちの陰謀により、追放の窮地から脱することができ、更には、ローマ最高権力者の愛人となったことで豪邸に住むことができた。彼女がどんな野望を抱いてこの言葉を言ったかはわからないが、もしかしたらその美貌を利用して、世界中の女性が目をくぎ付けにする『女性としての最強の処世術』を繰り広げて見せたのかもしれない。しかし、カエサルの暗殺によって、彼女の野望も終わってしまった。
[イタリア人画家ピエトロ・ダ・コルトーナによる1637年の作 カエサル(中央、赤いマント)がクレオパトラ7世の手を引いて玉座へ座るよう促している。右端はアルシノエ4世。]
クレオパトラは、カエサルとの子供、カエサリオンを、弟のプトレマイオス14世の死後、王に即位させたが、彼女の死後、オクタウィアヌスによって処刑される。
アウグストゥス(オクタウィアヌス)
このオクタウィアヌスの別名が、『アウグストゥス』なのである。カエサルの死後、
- オクタウィアヌス(アウグストゥス)
- アントニウス
- レビドゥス
の3人が再び三頭政治を始めるが、すぐに対立。アントニウスはクレオパトラと手を組みアウグストゥスに戦いを仕掛けるも、アウグストゥスは『アクティウムの海戦』によって彼らに勝利し、決着をつけた。
[Lorenzo A.Castro『アクティウム海戦』]
『尊敬すべき人』の意味。元老院からつけられた称号。
帝政ローマ『ローマ帝国の始まり』
アウグストゥスはカエサルの養子だった。紀元前27年に元老院から国家のあらゆる権力を付与され、ローマは『帝政ローマ』となったのである。アウグストゥスは広場や神殿、公共施設を建設し、人口120万人の国際都市ローマを造営した。しかし、彼自身は皇帝の宮殿とは程遠い質素な家に住み、更には自分のお金を使って市民に食料を配ったりして、国と国民に尽くした。
[オクタウィアヌス(アウグストゥス)]
もう一度これらの政治用語を見てみよう。
支配者が独断で思いのままに事を決する政治。
君主を持たない政体、君主制ではない政治体制。
皇帝が支配・統治・君臨する国家。君主制国家の一種で、統治者が皇帝を君主号とする場合を指す。
貴族の特権があった『専制政治』のような社会に反発し、『共和制』となったローマ。カエサルが王になろうとしたときは、元老院から反発され、何者かに暗殺されることになった。しかし、結局彼の養子であるオクタウィアヌスは、その元老院から『アウグストゥス(尊敬すべき人)』の称号を得て、あらゆる権利を付与され、『帝政』となった。
二人の英雄
そう考えると、確かにカエサルは民衆の気持ちを理解していた面もあるかもしれないが、人に誇れない暗黒の面も持ち合わせていたのかもしれない。それを見て見ぬ振りしなかった人々が、
アウグストゥスなら大丈夫
だと思い、『帝政』を受け入れ、そして彼自身もそれに応えて、国に尽くした。しかし、まだ誰も征服していないガリアを崩壊させ、アジア、エジプトと世界各地の死の危険を乗り越えローマ帝国を飛躍させることができたのは、カエサルの『危険な攻撃性』があってこそのものだったのかもしれない。
ローマを歴史に残したのはカエサルで、その後始末をしたのがアウグストゥスだったように見える。そう考えると、二人は『世界のローマ帝国』を作るために欠かせない、運命共同体だったのかもしれない。
『ローマ帝国』となったのは、アウグストゥスの帝政ローマ(紀元前27年)以降である。
ローマ帝国を力づくで作った時、帝国内の『宗教観の違い』の問題はどうクリアした?
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