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ローマ帝国黄金期『五賢帝時代』のアウレリウスと、衰退期『軍人皇帝時代』のウァレリアヌス

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!

  1. ローマ皇帝で一番ひどかった人は誰?
  2. ローマ皇帝で一番不運でかわいそうな人は誰?

1.第5代皇帝のネロもひどいですが、『ローマ史上最悪の暴君』と言われたのはカラカラでした。

2.軍人皇帝時代のローマ皇帝ウァレリアヌスは不幸でした。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

義弟や母、妻など自分の気に入らない存在はことごとく抹殺し、ついにはローマに火を放ったと言われたネロ。

ネロはその放火の犯人を台頭してきた『キリスト教信者』たちのせいにし、大量虐殺してしまいました。更に、金を浪費し、自分の為に『黄金宮殿』を建設し、金箔、宝石、真珠を散りばめた大豪邸を作りましたが、最後にはそうした悪行がたたって反乱が起き、『人民の敵』と定められます。しかし、それよりもひどいのがカラカラ。弟と、その側近や友人等、およそ2万人を処刑してしまい、即位の翌年212年に『アントニヌス勅令』を発布し、ローマ帝国内の自由民に市民権を与え、増税を試みるも、結局彼はネロよりもひどい『ローマ史上最悪の暴君』と言われ、うまくいきませんでした。

 

50年間に26人の皇帝が乱立した『軍人皇帝時代』に突入したローマ帝国は、何をやってもうまくいかず、衰退しつつありました。253年からの皇帝ウァレリアヌスは、その中で最も不運で、東方遠征時に、ペルシャ王の捕虜となり、2年余り屈辱的な日々を強いられます。ペルシャのササン朝第2代王シャープール1世はローマ軍を撃破する力を持っていて、彼を乗馬の踏み台にし、奴隷として扱います。そして死後は皮を剥がされ、赤く染め、見せしめに神殿に飾られました。これが、彼がローマ皇帝で最も不運だったと言われる理由です。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

ローマ帝国と宗教問題

ローマ帝国(ポエニ戦争)→カエサル・アウグストゥス時代→ティベリウス時代→五賢帝時代・軍人皇帝時代

イエスが言った『カエサルの物はカエサルに』の『カエサル』は、ユリウス・カエサル?

 

上記の記事の続きだ。アウグストゥスの養子である、第2代ローマ帝国皇帝ティベリウスの時代にイエス・キリストが生まれ、そして彼の死後パウロが『キリスト教』を作った。そしてローマ帝国はその後、『五賢帝』の時代に突入する。

 

ローマ五賢帝

ネルウァ 第12代皇帝 96~98年
トラヤヌス ネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝 98~117年
ハドリアヌス 第14代皇帝 117~138年
アントニヌス=ビウス ネルウァ=アントニヌス朝の第4代皇帝 86~161年
マルクス=アウレリウス ネルウァ=アントニヌス朝の第5代皇帝 121~180年

 

その前に確認しておく流れがある。ローマ帝国は、それを作る過程で問題が起こる。ローマ帝国は紀元前800年頃から作られ始めるわけだが、その帝国の中には様々な国家や民族があるわけである。そうなると当然、それぞれが持っている宗教観に違いが出てくる。

 

俺の神が正しい!
いや俺の神だね!

馬鹿野郎!俺の神だよ!

 

エジプトの神々のトップは『ナイル川』ってどういうこと?

ソクラテスも信仰したギリシャ神話の神々~『哲学』はこうして世に誕生した~

アベンジャーズの『ロキ』は北欧神話ではもっと凶暴な存在だった!?

聖剣『エクスカリバー』を抜け!ケルト神話から受け継がれる誇り高き心構え

 

上記の記事に書いたように、各地域には様々な神話や宗教があった。したがって、一つにまとまらない。最初は力づくでまとめていたがそれには限界があり、どうしても帝国をまとめるために『優秀な宗教』の存在が必要だった。

 

 

キリスト教の存在

当時、宗教の存在は政治や経済よりもはるかに重要な位置づけにあったので、それを見つけて人間をまとめることは、必要不可欠なことだった。そこで、帝国のすべての人々が納得するような『優秀な宗教』を探した。

 

  1. 奴隷や市民が来世を信じ、現世の苦痛を受け入れて不平不満を言わないようにする
  2. 将来は平等で幸福な社会が来ることを提示する
  3. 憎悪と対立に満ちたこの社会に共存と和解を求める『平和と愛』を強調する

 

このような条件をクリアした『優秀な宗教』を探し、そしてたどり着いたのが『キリスト教』だった。これによってキリスト教はローマ帝国の国教となり、多くの人に受け入れられ、世界宗教へと発展していった。

 

STEP.1
帝国を作った
STEP.2
しかし帝国内の人々の宗教観が異なっていた
STEP.3
一つにまとめる必要があった
STEP.4
条件をクリアした『優秀な宗教』が『キリスト教』だった
これによってキリスト教はローマ帝国の国教となり、多くの人に受け入れられ、世界宗教へと発展していった。

 

ユダヤ神話(一神教)とギリシャ神話(多神教)はなぜ和解できたのか?

ローマ帝国を力づくで作った時、帝国内の『宗教観の違い』の問題はどうクリアした?

 

それが、以上の記事にも書いた『ローマ帝国と宗教の問題』である。だが、ローマ帝国の国教にキリスト教が選ばれるのはまだまだ先なのだ。313年の、ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス(在位:306年-337年)が『ミラノ勅令』を発布し、初めて国教として認められるのである。そして、ローマ帝国の国教にキリスト教が選ばれるのは、この『五賢帝』の最後の一人、マルクス・アウレリウスの死も、大きく影響しているのである。

 

 

暴君ネロのキリスト教徒虐殺

例えば、五賢帝時代に突入する前に『ネロ』という第5代の皇帝がいた。

 

[ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作(1878年)。母を謀殺した後の皇帝ネロ。]

 

彼は17歳で皇帝に即位するが、政治に興味がなく、ギリシャ文化にかぶれたり、芸術家気どりをするお坊ちゃまだった。徐々にわがままが暴走化し、傲岸不遜に陥るネロは、義弟や母、妻など自分の気に入らない存在はことごとく抹殺し、ついにはローマに火を放ったと言われている。

 

だが、ネロはその放火の犯人を台頭してきた『キリスト教信者』たちのせいにし、大量虐殺してしまった。更に、金を浪費し、自分の為に『黄金宮殿』を建設し、金箔、宝石、真珠を散りばめた大豪邸を作ったが、最後にはそうした悪行がたたって反乱が起き、『人民の敵』と定められ、ローマを脱出するも、自殺する。このネロの時代にはまだ、キリスト教は世に認められていないことがわかるわけだ。

 

 

五賢帝時代

そしてローマは『五賢帝』時代に突入する。まず、たったの18か月しか皇帝の座にいなかったネルウァだが、彼の功績は大きかった。そのネロや、ドミティアヌス等の暴君にも仕えていた経験も手伝ったのか、彼から『五賢帝時代』が始まっていく。トラヤヌスは、元老院から『最善の元首』の称号を得た、エネルギッシュな人物だった。優れた軍人でもあった彼は、積極的に対外政策をし、帝国の領域を拡大するなどして、ローマ帝国に貢献した。

 

ハドリアヌスは、平和主義者で、戦争を好まなかった。彼は、美青年を愛し、美しい少年アンティノオに魅せられた。ある日アンティノオが不慮の死を遂げると、ハドリアヌスは彼を神格化して祭儀を行ったうえ、『アンティノポリス』という街まで作った。彼は『ハドリアヌスの長城』を作り、強固な城壁を築き、辺境地の防衛に貢献するが、アンティノオが死んだ後は性格が荒れ、ユダヤの反乱が起きたときは、反逆者たちを虐殺した。

 

 

ハドリアヌスの長城

イギリスとスコットランドの境界線近くに位置するハドリアヌスの長城は、122年に着工し、132年に完成。全長約118㎞に及び、世界遺産にも登録されている。

 

アントニウス・ピウスの23年間は、ローマが最も安定した時代で、外に出て戦う必要もなかった。『ピウス』というのは『敬虔なる者』という意味で、『人類の父』という称号も得た彼も、多くの人から愛されたようだ。

 

 

『最後の善なる皇帝』マルクス・アウレリウス

そして『五賢帝』の最後の皇帝、マルクス・アウレリウスの時代に突入する。『哲人皇帝』と言われた彼は、哲学者たる一面を持っていた。

 

 

『最後の善なる皇帝』とも言われた彼の存在は大きく、マルクス・アウレリウスが死んだことで、ローマ帝国は長い間混沌の闇に陥る。そして、哲学ではなく『神』を求めるようになるのだ。

 

STEP.1
マルクス・アウレリウスが死ぬ
『最後の善なる皇帝』の異名を持っていた。
STEP.2
ローマ帝国は長い間混沌の闇に陥る
STEP.3
人々は絶望に陥り、『光』を求めるようになる
STEP.4
そこへキリスト教が現れる
 

アテネ哲学⇒ローマ哲学へ。ヘレニズム時代から『中世に入るまでにあった最後の哲学』とは?

ローマ帝国を力づくで作った時、帝国内の『宗教観の違い』の問題はどうクリアした?

 

[アウレリウス死没時の帝国領]


参考
マルクス・アウレリウス・アントニヌスWikipedia

 

 

セウェルス期

その後、193年から211年には軍人皇帝のセウェルスが占星術で物事を決める等するが、彼の時代にはもはやローマは滅亡の途を辿っていた。

 

『ローマ史上最悪の暴君』カラカラ

そして、彼の息子カラカラが皇帝に就くが、ネロ同様、彼には暴君としての一面があった。セウェルスが死んだ後、弟と、その側近や友人等、およそ2万人を処刑してしまったのだ。即位の翌年212年に『アントニヌス勅令』を発布し、ローマ帝国内の自由民に市民権を与え、増税を試みるも、結局彼はネロよりもひどい『ローマ史上最悪の暴君』と言われ、うまくいかなかった。

 

 

軍人皇帝時代

そして3世紀の中盤から、50年間に26人の皇帝が乱立した『軍人皇帝時代』に突入する。この時代は何をやってもうまくいかず、ローマ帝国は衰退しつつあった。

 

ウァレリアヌスの悲劇

253年からプブリウス・リキニウス・ウァレリアヌスは、その中で最も不運だった。息子ガリエヌスと共同統治をおこなうが、東方遠征時に、ペルシャ王の捕虜となり、2年余り屈辱的な日々を強いられ、最後にはそのまま死亡してしまったのである。

 

[捕虜となってシャープール1世に跪くウァレリアヌス(ナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像)]


参考
ウァレリアヌスWikipedia

 

このペルシャのササン朝第2代王シャープール1世はなかなかのエネルギッシュな人間で、強力な軍隊を誇り、ローマ軍との戦いに勝利する等して、勢力を上げていた。ローマの戦士約1万人を捕虜にし、国内のインフラ整備に使役したのだ。ウァレリアヌスは捕虜となった後は最悪の扱いを受けた。乗馬の踏み台にし、奴隷として扱う。そして死後は皮を剥がされ、赤く染め、見せしめに神殿に飾られた。これが、彼がローマ皇帝で最も不運だったと言われる理由である。

 

もう一度見てみよう。

 

STEP.1
マルクス・アウレリウスが死ぬ
『最後の善なる皇帝』の異名を持っていた。
STEP.2
ローマ帝国は長い間混沌の闇に陥る
STEP.3
人々は絶望に陥り、『光』を求めるようになる
STEP.4
そこへキリスト教が現れる
 

 

ローマ帝国は『五賢帝時代』、そして『軍人皇帝時代』を経て、ついにキリスト教を国教へと定めるのである。だが、それにつながる『ミラノ勅令』が発布される前に、まだ一つ大きな壁があった。

 

 

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