ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- ミラノ勅令って何?
- テオドシウスは何をした人?
- ローマ帝国はなぜ滅亡したの?
- ヨーロッパで『古代→中世』へと変わる分岐点はいつ?
1.ローマ帝国内でキリスト教を公認し、保護すると主張された勅令です。(勅令:国王・皇帝・天皇などの君主が直接発する命令・法令。)
2.ローマ帝国の国教をキリスト教と定めた人です。
3.ローマの経済破綻による反乱に、ゲルマン人がやってきたりしてローマは東西に分裂します。しかし、本当に滅亡するのは1453年にビザンツ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされてしまったときです。
4.476年に西ローマ帝国がゲルマン人傭兵隊長オドアケルの手で滅ぼされたときからです。
ハニワくん
博士
ローマ帝国の国教がキリスト教になるということは、とても大きな出来事です。
それによってキリスト教が大きな力を持ち、その後の中世の1000年間を支配するからです。この間は哲学も大した発展をせず、ただただキリスト教の為にある1000年間でした。現在キリスト教が世界一信者が多い宗教なのも、この時の出来事が大きな理由となっています。
ディオクレティアヌスが皇帝を神として崇めさせる『専制君主制』を始め、コンスタンティヌスが夢の中でキリストの十字架を見て、『ミラノ勅令』を発布。そしてローマ帝国最後の皇帝テオドシウスがキリスト教をローマ帝国の国教と定めた。この3人の強烈なリーダーシップがなければ、現在のキリスト教はないかもしれません。
ゲルマン人傭兵隊長オドアケルは確かに、ローマ帝国が滅亡した後の最初の王です。しかし、『ローマ帝国』というのは複雑な話で、
- 東西に分かれた395年
- オドアケルに西ローマ帝国が潰された476年
- ビザンツ帝国(東ローマ帝国)がオスマン帝国によって滅ぼされた1453年
と、そのどれもで『ローマ帝国が終わった』ということができます。ただ、厳密にはローマ帝国が分裂しても、西だけが潰れても、まだ東(ビザンツ帝国)は残っているので、本当にローマ帝国が潰れたのは1453年ということになります。したがって、ローマ帝国の寿命は1500年だったとされています。しかし、ヨーロッパで『古代→中世』へと変わる分岐点は、オドアケルに西ローマ帝国が潰された476年ということになります。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
ローマ帝国の国教がキリスト教になるまで
ローマ帝国(ポエニ戦争)→カエサル・アウグストゥス時代→ティベリウス時代→五賢帝時代・軍人皇帝時代→ローマ帝国の滅亡
ローマ帝国黄金期『五賢帝時代』のアウレリウスと、衰退期『軍人皇帝時代』のウァレリアヌス
上記の記事の続きだ。『五賢帝時代』のアウレリウスと、『軍人皇帝時代』のウァレリアヌス等の時代を経て、ローマ帝国はいよいよ衰退の途を辿ってしまっていた。ローマ帝国の国教をキリスト教に繋がる『ミラノ勅令』が発布される前に、まだ一つ大きな壁があった。ディオクレティアヌス(284年11月20日 – 305年5月1日)である。
皇帝を神として崇めさたディオクレティアヌス
[ディオクレティアヌス]
彼は、衰退するローマ帝国を再建するために、帝国を4分割する『四頭政(四帝文治)』を導入した。それぞれに正帝と副帝を立てたうえで全土を掌握するわけだ。そして強大なリーダーシップを実現するために、皇帝を神として崇めさせる『専制君主制』を始める。
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下の方の記事に書いた内容を見てみよう。
ローマ帝国は最終的にはキリスト教を国教とするのだが、その過程で一度、『宗教の自由』を用意し、『ローマ皇帝も神とする』という決まりを作った。しかし、自由な宗教観によって帝国がまとまらないので、最終的にはキリスト教で一つにまとめたわけだ。そしてユダヤ人たちは、『ローマ皇帝も神とする』という話があったとき、それを断固として拒絶した。
ユダヤ人
そしてユダヤ人は故郷イスラエルから、永遠に追放されてしまうのである。ユダヤ人というのは信仰心が強く、それが原因となって常に迫害を受け、あるいは対立してきた。
…これがその内容である。この『ローマ皇帝も神とする』話を始めたのが、このディオクレティアヌスだった。だが、ユダヤ人たちはその考え方に強く抵抗感を覚える。そして彼らは、故郷を追放されるわけだ。そして、ディオクレティアヌスはキリスト教徒も激しく迫害した。彼の時代には、ローマ伝統の神々の信仰を強制し、キリスト教信者の大量殺戮や教会破壊、そして財産没収を行ったのだ。
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これが、『ミラノ勅令』が発布される前の大きな壁だったのである。
『ミラノ勅令』を出したコンスタンティヌス
そしてローマははコンスタンティヌス1世の時代に突入する。彼の後の306年から皇帝になった彼は、その専制政治を引き継いだ。だが、ライバルだったマクセンティウスと対峙したコンスタンティヌスは、夢の中でキリストの十字架を見た。そこで、兵下たちに軍旗を掲げる代わりに盾に十字架を刻ませ、見事に勝利したのである。
冒頭の記事『五賢帝時代』のマルクス・アウレリウスと『軍人皇帝時代』のウァレリウスの両者の名前が入っている彼が誰の子孫かはWikipediaやいくつかの参考書を見てもわからないので、わかったら追記する。
コンスタンティヌスはニケーア公会議を開いて教義をめぐる対立を調停。330年に東方ビザンティウムに都を移し、自らの名前を冠した新首都コンスタンティノーブルに遷都する。そして、そのコンスタンティノープルをキリスト教の街に作り上げた。前帝だったディオクレティアヌスは教会を破壊したが、彼は逆に教会を作った。
そして331年『ミラノ勅令』を発布し、キリスト教を公認し、保護し、ローマ帝国の体制を作り替え、30年以上にわたって専制君主として君臨することになる。そして、ここからキリスト教が爆発的に勢力を上げることになるのだ。コンスタンティヌス1世は後世のキリスト教徒たちにとって最も重要な皇帝と1人と見なされ、キリスト教世界において長きにわたって権威の源泉であり続けた。そして彼は『大帝』と呼ばれるようになった。
[バチカン宮殿のコンスタンティヌスの間に描かれた『The Donation of Constantine』(ラファエロ・サンティ作)]
確かにこの時代、このような流れはあった。
だが事実上は、コンスタンティヌスが夢を見ていなければ、どうなっていたかはわからないのである。
ディオクレティアヌスがやったことは失敗だったとまとめる節もあるが、専制君主制を敷いたということで言えば、それをコンスタンティヌスに引き継ぎ、キリスト教を援護する彼が権力を持ってからこそキリスト教が守られたわけだから、歴史的にはディオクレティアヌスがやったことも大きなことだったと言えるだろう。
ローマ経済の破綻とゲルマン人の大移動
さて、そのような流れを経て、ローマは再び精神的にも政治的にも安定し始めていた。だが、膨大な国境線を維持する軍事費等、財政面では窮地に陥っていた。結局ローマの財政は破綻し、反乱が起き始める。375年、そんな混乱の最中、アジア系遊牧民フン人の圧迫を契機に、ゲルマン人の大移動が始まった。
[1世紀のゲルマニア。スエビ人(おそらくケルト系が主)やヴァンダル人(おそらくスラヴ系が主)など、母語がゲルマン語派の言語かどうかが怪しまれている民族も含まれている]
原始ゲルマン人は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となった。
『ローマ東西分裂』
ローマ帝国最後の皇帝テオドシウス1世は、ゲルマン民族をローマの同盟者とし、軍隊の即戦力とした。彼らと融和する対策を取り、382年、帝国内に最初のゲルマン国家が生まれた。しかし、彼の死後395年、ローマ帝国は東西に分裂する。キリスト教をローマのイデオロギーとし、ローマを再統一した彼だったが、分裂したローマが元に戻ることはなかった。
国教をキリスト教と定めたテオドシウス
実は、ローマ帝国の国教をキリスト教と定めたのはこのテオドシウスであり、コンスタンティヌスの『ミラノ勅令』ではなかった。
- ディオクレティアヌス
- コンスタンティヌス
- テオドシウス
この3人のローマ皇帝がいなければ、キリスト教の勢力は拡大しなかったかもしれない。
[テオドシウス帝の死直後(395年)のローマ帝国行政区画]
『古代→中世』
その後、西ローマ帝国は476年にゲルマン人傭兵隊長オドアケルの手で滅ぼされた。その後彼は、皇帝の紋章を東ローマに返還し、東帝の代官として王となった。オドアケルは、ローマ帝国が滅亡した後の最初の王だから、『初代イタリア王』という称号を得ることになる。
[オドアケルに帝冠を渡すロムルス・アウグストゥルス]
歴史的には、ここから『古代→中世』へと変わる分岐点となる。中世は、ローマ帝国の東西分裂後、大航海時代やルネサンスが始まるまでの1000年間のことである。
中田敦彦のyoutube大学
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代をまとめた人気動画があります。
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