ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- 大航海時代って何?
- コロンブスは何をした人?
- マゼランは何をした人?
1.スペインとポルトガルが行った『新しい大陸探し』の旅です。
2.新大陸(バハマ諸島やカリブ海の島々)を発見した人です。
3.船で世界一周して『地球が丸い』ことを証明した船団の船長でした。
ハニワくん
博士
『新大陸』とはスペイン・ポルトガル人から見てのことです。
アメリカ大陸からすれば、彼らの島こそが『新大陸』ですからね。しかし、先に航海をし、先に新大陸を見つけたのはスペイン・ポルトガル人で、ここに挙げられているのがその先陣を切った航海者たちということです。
1492年に出航したコロンブスは『アメリカ大陸の一部』を発見。全体を一つの島だと認識して見つけたのはイタリアのアメリゴ・ヴェスプッチです。彼の名をとって『アメリカ大陸』となりました。ちなみに『コロンビア』はコロンブスの名をとってつけられました。アメリカが『アメリゴの土地』を意味し、コロンビアは『コロンの土地』を意味します。『アメリカ大陸の発見者』と言えば、通常この二人が筆頭に挙げられます。
1519年に出航したマゼラン自体は途中で原住民と戦って亡くなってしまいますが、生存者はアフリカ経由でスペインに帰還することに成功し、太平洋横断、つまり『地球球体説』を実証しました。その後、1530年にコペルニクスが『地動説』を唱え、この世界の人々の考え方はガラッと変えられました。今まで信じていたことが嘘だったからです。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
スペイン・ポルトガルの誕生
大航海時代
『イタリア、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、スペイン』はいつできた?ローマ帝国解体後のヨーロッパ
上記の記事の続きだ。ヨーロッパの国々は大雑把に考えて『9世紀~10世紀』にできたと言える。大雑把に考えて、『ローマ帝国が解体し、現在のヨーロッパ諸国が作られ始めた』ということである。
では、スペインはどうか。スペインとポルトガルは隣国だった。カスティリャ王国とアラゴン王国という2つの国があったのだが、ここの王子と王女が結婚し、『スペイン王国』が成立した。それは1469年のことである。では、このスペインとポルトガルの最低限の情報がわかったところで、コロンブスたちが活躍する『大航海時代』の話を見てみよう。
[スペイン・ポルトガル同君連合(1580年–1640年)時代のスペイン帝国の版図(赤がスペイン領、青がポルトガル領)]
大航海時代
この時代のスペインとポルトガルのキーワードは、
- ヴァスコ=ダ=ガマ
- マルコ・ポーロ
- コロンブス
- マゼラン
- カブラル
- エンリケ
- ピサロ
- コルテス
である。彼らに共通するものこそが、『大航海』なのである。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』
1096年~1272年まで約200年間続いた十字軍の戦いは、『カトリック教会の権威低下』と同時に、意外な恩恵をもたらした。十字軍遠征の時に十字軍の通り道になった場所で、商業が発展したことが関係しているのである。
恩恵を受けた地と取引された商物
ヴェネツィア、ジェノヴァ | アジアの香辛料、絹 |
ミラノ、フィレンツェ | 手工業、金融 |
リューベック、ハンブルク | 木材、穀物 |
ブリュージュ(フランドル地方) | 毛織物 |
フィレンツェやミラノは手工業などで発展し、イタリアはヨーロッパのなかで最も都市化の進んだ地域になる。そして芸術面においては、下記の記事に書いたように『ルネサンス時代』へと突入するわけだ。
ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった芸術家たちが『ルネサンス時代』に大活躍できた理由とは
そしてヴェネツィア、ジェノヴァは、地中海貿易でムスリム商人やビザンツ商人と取引し、莫大な富を得た。更に下記の記事に書いたように、13世紀にはヴェネツィアの商人マルコ・ポーロが『東方見聞録』を著すなどして、西洋人は東方に興味を持つようになる。
『東方見聞録』に見られる日本の記述。日本(ジパング)は、民家や宮殿が黄金でできている黄金の国だと紹介されている。
13世紀にあったチンギス=ハン一家の野望!『死体の山(ワールシュタット)』を作りながら領土を拡大
15~16世紀には、ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国が最盛期を迎え、ヨーロッパからアジアにつながる東西の交易路を押さえていた。先ほども表に遭ったように、特に『アジアの香辛料』が人気であり、イスラム圏からイタリア諸都市を経由して、高値で取引された。
レコンキスタ(国土回復運動)の完了
スペインやポルトガルがある『イベリア半島』は、中世の時代にイスラム勢力に征服されていたが、キリスト教徒がこれを奪還しようとする『レコンキスタ(国土回復運動)』を行っていた。それは8世紀頃に始まり、11世紀頃に活発化し、15世紀の末に完了するが、それを機にポルトガルやスペインの海外進出が始まる。
まず忘れてはならないのが『航海王子』と言われたエンリケの存在である。彼は実際に航海に出ることはなかったが、王子である彼のような立場の人間がバックアップするからこそ、大航海時代は開けた。ポルトガル南西端サン・ヴィセンテ岬近くのサグレスに航海学校を設立するなどして、時代のお膳立てをするのだ。
バーソロミュー(バルトロメウ)・ディアス
1487年、バーソロミュー(バルトロメウ)・ディアスは、アフリカ西海岸に沿って南下し、暴風により漂流する間にアフリカ最南端『喜望峰』を通過。スペイン・ポルトガルはまずはここまで航海を進めた。
コロンブス
1492年、スペインはジェノヴァ出身のコロンブスは、乗組員120人と『サンタ・マリア号、ピンタ豪、ニーニャ号』の船3隻で、72日間の大航海に出た。熟達した船乗りだったコロンブスは、『地球球体説』を信じていて、大西洋を西進したほうが資源の宝庫であるインドへの近道になると信じ、西回りの遠洋航海を目指した。しかし、先ほどの『ルネサンス時代』の芸術家たちのように、芸術も、冒険も、ある一線を越えられない場合は単なる『趣味』の枠に収まる。
[サンタ・マリア号(レプリカ) スペイン・マディラのフルカル港にて]
冒険の実現には莫大な資金と大きな代償を払う覚悟が必要だった。覚悟の方ならあった。地球が丸いと信じ、海の向こうに未知なる世界があることを夢見たコロンブスには、冒険するだけの心構えがあった。だが、なかなかパトロンが見つからない。ポルトガルの王にはそれを拒絶され、資金集めに苦しんだ。だが、スペイン女王イサベルは違った。コロンブスを応援するというのだ。
こうして始まった大航海。まず大西洋を横断してバハマ諸島に到着後、カリブ海の島々にも到達。コロンブスはこの島を『インド』だと思い込んでしまい、先住民を『インディオ』と呼んでしまう。これによってアメリカ先住民は、以来『インディオ』と呼ばれるようになった。
よくあるこのコロンブスの肖像画は本人ではない。イタリアの画家リドルフォ・ギルランダイオが『コロンブス提督伝』をもとに想像で描いたものである。
『トルデシリャス条約』、『サラゴサ条約』
1494年、スペイン・ポルトガルは進出先を激しく争うが『トルデシリャス条約』、『サラゴサ条約』を結び、勢力圏が取り決められた。
ヴァスコ・ダ・ガマ
1497年7月、マヌエル1世の命でリスボンを出港したヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰を回ってアフリカ東海岸を北上。翌年5月、インド西岸のカリカットに到着した。このインド航路の開拓で新たな貿易ルートが作られ、高騰していた香辛料の値を引き下げることに成功した。リスボンでのコショウの価格はヴェネツィアの半額以下となったのである。
カブラル
1500年、カブラル率いる第2回インド遠征艦隊は、途中で漂流し、ある大陸に到着した。これが『ブラジル』の発見だった。このことから中南米で唯一、ブラジルはポルトガル領となった。ブラジルの母国語がポルトガル語なのは、このためである。
マゼラン
1519年、スペイン王カルロス1世の命を受けたマゼランは、やはり香辛料の特産地であるモルッカ諸島を目指し、西回りの大航海に出た。その途中、南アメリカ南端の海峡を発見。南太平洋を横切り、グアム島、フィリピンに達した。マゼランはこの地で原住民と戦って亡くなってしまうが、生存者はアフリカ経由でスペインに帰還することに成功し、太平洋横断、つまり『地球球体説』を実証したのである。
もし地球が平面なら人は『上と下と横』に何があると考えたかわかるだろうか?
ディアスが先陣を切り、コロンブスが新大陸を発見し、ヨーロッパとアメリカを結ぶ新航路が生まれ、そのあとに続いた様々な冒険家が、次々と大事業を成し遂げることに成功した。そしてマゼランの艦隊が『地球球体説』を実証し、世界は大きなパラダイム転換を強いられることになった。
もし地球が平面なら人は『上と下と横』に何があると考えたかわかるだろうか?
そう。この時代は人間の思想面にも大きな変化が求められたのである。
モンテーニュとマキャベリは疑った。だが、二人の政治思想は対極的だった
啓蒙主義時代に突入させた重要人物『コロンブス、コペルニクス、マゼラン、ガリレオ』
コルテスとピサロ
また、スペインの貴族であるコルテスは、1519年にハバナを出て、アステカ王国の首都テノチティトランに入る。一度は戦いに敗れるが、1521年にもういちど再占領し、アステカ王国を滅ぼした。また、1531年にはスペインの軍人ピサロがインカ帝国の内乱状態に乗じて乗り込み、1533年にはインカを滅ぼし、占領した。
[『インカの失われた都』マチュ・ピチュの風景]
アメリカ大陸の二大文明は『メソアメリカ文明(マヤ・アステカ等)』と『アンデス文明(インカ等)』
鉄砲とキリスト教伝来
1543年、日本の種子島には、ポルトガルのフランシスコとキリシタ・ダ・モッタが漂着し、鉄砲を伝える。いわゆる、『鉄砲伝来』である。1549年には、スペイン(ナバラ王国)の宣教師ザビエルが来日し、ポルトガルと日本の交易が恒常化した。
『日本人はこれまで発見された国民のなかでも、最もよい者である。異教徒のなかでこれほど優れた者はいないだろう。日本人は慎み深く、冨より名誉を重んじる国民なのだ。』
ザビエルはそう言って日本人を高く評価したが、日本でキリスト教は簡単には広がることはなかった。日本の関心はキリスト教というよりも、ポルトガルとの貿易にあったのだ。そしてその後日本とキリスト教の問題は、『隠れキリシタン』等の問題につながっていく。
[フランシスコ・ザビエル像。17世紀初期に描かれた。神戸市立博物館所蔵。『中公バックス 日本の歴史 別巻2 図録 鎌倉から戦国』より。]
国際貨幣『銀』
さて、これがスペイン・ポルトガルの『大航海時代』だ。この時代を契機に世界が一体化し、世界各地で流通が盛んになった。スペインがアメリカ大陸で採掘した銀や、日本からもたらされた金銀が大量にヨーロッパに流入し、大幅な物価上昇へとつながった。日本は戦国時代から江戸時代初期までの間、世界でも有数の銀産出国だったのだ。
下記の写真は私が20代の時に撮った世界遺産『石見銀山遺跡とその文化的景観』にある銀山の洞窟である。
島根県石見にあるこの銀山の年間最大産出量は38トンを誇った。当時、世界の年間銀産出量は600トンほどで、うち200トンは日本産だったほどである。スペインやポルトガルはマニラに拠点を置いていたので、アジアでの貿易にも強かった。
このような『中継貿易』によって両国は莫大な富を得た。当時、銀は国際貨幣として広まっていたので、大きな価値を持っていた。そして下記の記事に書いたようなイギリス、インド、中国の『三角貿易』、そして『アヘン戦争』につながるのである。
イギリスは一度インドへ自国の製品を輸出し、インド産のアヘンを清へ輸出。そしてインドを経由して支払いに使った銀を回収するというする三角貿易によって利益を上げる。
アヘン戦争の原因はお茶の値段を吊り上げた『清』、野心の塊だった『イギリス』のどっちにあるか
人間のパラダイム転換
この時代の彼らがやったことは、単なる自国への利益貢献と、世界を繋げただけではない。前述したように、『地球が丸い』ことの証明により、実に1500年以上も信じられていたキリスト教の教えでもある『天動説』をひっくり返したことにより、その土台的根幹であるキリスト教自体の信憑性に、大きなヒビが入ることになってしまったのだ。
バックミンスター・フラーは言った。
神のみが完璧であり、まさしく真実そのものであることを感じる。それ以外の誤謬を徐々に排除していくことによって、われわれはこれまでより神に近づくことができるにすぎない。真実を愛することによって、われわれは神にもっとも近づくことができる。
こうして人は大きく一歩、『真実』に近づいたのである。
ここで言う『神とは『真理、真実』と解釈すればわかりやすい。
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
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