ハニワくん
先生
ビスマルクは何をした人?わかりやすく簡潔に教えて!
オーストリアからドイツの主導権を獲り、『普仏戦争』でフランスに勝ち、『ドイツ帝国』を成立させた人です。
ハニワくん
博士
『神聖ローマ帝国』はドイツの前段階です。
その主導権争いをオーストリアと行ったプロイセンのビスマルクは、のちに『初代ドイツ皇帝』ヴィルヘルム1世と一緒にプロイセンで活躍します。彼は『鉄血政策』によって富国強兵を進め、まずライバルのオーストリアを誘ってデンマークを倒し、更にオーストリアを挑発し、『プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)(1866年)』でヨーゼフ1世率いるライバルのオーストリアを撃破。そして、ドイツからオーストリアを除外し、『北ドイツ連邦』を成立させます。
更に『南』も統一するためにフランスを倒す必要があると考えたビスマルクは、1870年、フランスのナポレオン3世を挑発し、普仏戦争を起こします。しかし、挑発に乗ったナポレオン3世とは違い、ビスマルクは入念に準備をしていました。そのおかげでビスマルクは彼を筆頭とするフランスを倒すことができ、翌年にはヴェルサイユ宮殿で『ドイツ帝国』の成立が宣言されました。
ビスマルクは、フランスという『共通の敵』に焦点を当てることで、国民の気持ちを一つにし、鉄血政策によって力強さもアピール。見事フランスを打ち砕き、プロイセン国民から認められたのです。ビスマルクが活躍した時代はまさにドイツの黄金期であり、イギリスからヨーロッパの覇権を奪うほどの実力を持ちました。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
神聖ローマ帝国の歴史
『ドイツ帝国』
ドイツ(神聖ローマ帝国・オーストリア・プロイセン)で起きた『三十年戦争』と『七年戦争』
上記の記事の続きだ。宗教間の違いで起きた『三十年戦争(1618年–1648年)』が終わった後、神聖ローマ帝国(ドイツ)の諸侯の中で2つの国家が頭角を現した。
- オーストリア
- プロイセン
の2国である。『ウェストファリア条約』でドイツ諸連邦の独立が認められ、神聖ローマ帝国は事実上解体されていた。オーストリアにはマリア・テレジア、そしてプロイセンには『大王』フリードリヒ2世がいた。その後両者は『七年戦争(1754年または1756年 – 1763年)』を経て、プロイセンがやや優勢の形となっていた。
下記の記事にあるように、 『神聖ローマ帝国』というのは『古代ローマ帝国、東ローマ帝国』と区別するためにある用語であり、『西ローマ帝国内の、東フランク(ドイツ)』の成立から、1806年まで続く国のことを言う。
『キリスト教VSイスラム教』の最初の戦いでキリスト教が勝利し、『神聖ローマ帝国』が誕生?
フランク王国の盛衰と分裂の裏で進んでいた『カトリック教会』の台頭と腐敗
新しい西ローマ帝国
800年のクリスマス、カール大帝はローマ教皇レオ3世より、継承者不在だった西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。これによってカール大帝率いるフランク王国は、新しい西ローマ帝国として公認された。
キリスト教はなぜ宗派が分かれた?『カトリック』と『ギリシャ正教』への分離
詳しくは記事に書いたが、実は、上記の記事に書いたように、この帝冠を授与された背景にあるのは『キリスト教会の東西分裂』だった。
ローマ帝国の分離によって分離したキリスト教
西ローマ帝国(神聖ローマ帝国) | カトリック |
東ローマ帝国(ビザンツ帝国) | 東方正教(ギリシャ正教、オーソドックス教会) |
『東ローマ帝国(通称ビザンツ帝国)』は、コンスタンティノープル教会の後ろ盾になっていたが、ローマ教会の後ろ盾はなかった。そうした背景も手伝って、ローマ教会はローマ教会で、西ローマ帝国をローマ教会の保護者にしようとしたのである。
ランク王国での相続争い
カール大帝が死ぬと、フランク王国での相続争いによって、
- 東フランク王国
- 西フランク王国
- イタリア
の3つに領土が分けられた。それがその後の、『フランス、イタリア、ドイツ』の原型となる。そして西フランク王国は、987年カペー朝が成立し、『フランス王国』となった。イタリアでは小王国や都市の分裂状態が続き、東フランクでは、国王のオットー1世が戦功を挙げ、962年にローマ教皇よりローマ帝国の帝冠を授けられた。これが、1806年まで続く『神聖ローマ帝国』の始まりである。
[領土の変遷]
ローマ帝国誕生~神聖ローマ帝国滅亡まで
まずは『ローマ帝国誕生(紀元前27年)~神聖ローマ帝国滅亡(1806年)』の流れを見てみよう。
481年~。フランク王国の全盛期を築いたのが768年 – 814年のカール大帝。
※図:フランク王国の時代別の領土
『ローマ帝国』が滅亡したのは、1453年5月29日。オスマン帝国メフメト2世のときに、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルが征服された。これによって紀元前27年から1500年続いたローマ帝国が滅亡することになった。西ローマ帝国は476年、ゲルマン人によって滅亡され、残った東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がこの時に滅亡し、『ローマ帝国』が終わったのである。
だが、『ローマ帝国』という名前がついた『神聖ローマ帝国』は残った。正式なローマ帝国ではなく、『ローマ帝国の継承国』という形で生き残り続けた神聖ローマ帝国は、まず『東フランク王国』となり、イタリアを併合してほぼ『西ローマ帝国』となるのだが、その後イタリアを失って『神聖ローマ帝国』となり、そしてこれが『ドイツ』へと変わっていく。
ローマ教皇から西ローマ皇帝の地位を授けられたフランク王カール大帝の死後、皇帝となっていたルートヴィヒ2世は父帝に反抗的だったため、東フランク王国は西ローマ帝国の権威を引き継ぐことができなかった。西ローマ帝国として正統だったのは中フランク王国である。
少し複雑だが、極めて大雑把に言うと、現在存在するヨーロッパ諸国(イタリア、フランス、イギリス、ドイツ等)の大元にあるのは『ローマ帝国』だったのである。それが歴史の流れとともに分裂したりして、現在の国の形へと変わっていったのだ。
神聖ローマ帝国は『ドイツ』へ
そして1648年の『三十年戦争』がヨーロッパ中を巻き込む国際戦争へと発展。戦争後は『ウエストファリア条約』で停戦するが、『神聖ローマ帝国』は解体同然となる。そのため、その条約は『帝国の死亡証明書』と言われた。
[ヴェストファーレン条約(ミュンスター条約およびオスナブリュック条約)]
しかし正式に神聖ローマ帝国が消滅したのはそこから150年後の1806年。ナポレオンが暴れまわったときにライン同盟を結成し、1815年に『ウィーン会議』で『ドイツ連邦(1815年 – 1866年)』が結成する。900年頃から『ドイツ』の名はあったが、『ローマ』の名前の方が強く、それまではここまで前面に押し出されていなかったが、このときからついに神聖ローマ帝国は『ドイツ』へと変わっていくのである。
ドイツの歴史
しかもドイツはここから更にコロコロと国家の名前と形を変えていくことになる。だからまずはこの段階ではここまでを把握するにとどめておこう。
ドイツの主導権争い
1848年。ドイツで三月革命が発生し、ドイツが統一に向かって希望を持つが、その主導を『オーストリア、プロイセン』のどちらがするのかということで対立し、一軒がうやむやになった。ドイツがフランス、イギリス、スペインらと比べてこれまでの時代にあまり目立たないのは、それらと比べてまとまりがないこと、そしてこの両国の主導権争いによる停滞があったからだった。
[ベルリン三月革命]
ヴィルヘルム1世と鉄血宰相ビスマルク
経済的にも政治的にも話は合わず、統一ドイツにオーストリアを入れる『大ドイツ主義』とオーストリアを除外する『小ドイツ主義』が衝突し、ドイツはいつまでたっても一つにまとまらなかったのだ。そんな中、ヴィルヘルム1世が即位し、オットー・フォン・ビスマルクがプロイセンの首相に任命される。
[オットー・フォン・ビスマルク]
ヴィルヘルム1世というのは、プロイセンの初代国王となったフリードリヒ1世の子である『軍人王(軍隊王)』と呼ばれたフリードリヒ=ヴィルヘルム1世のことではなく、のちに『初代ドイツ皇帝』となる、ヴィルヘルム1世である。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 | 第2代プロイセン王 | 軍人王 | 1688年8月14日 – 1740年5月31日 |
ヴィルヘルム1世 | 第7代プロイセン王 | 初代ドイツ皇帝 | 1797年3月22日 – 1888年3月9日 |
ビスマルクは言った。
『全ドイツがプロイセンに期待するのは自由主義ではなく武力である。現在の大問題(ドイツ統一)は言論や多数決でなく鉄と血によってのみ解決される。』
(『今日の大きな問題を決めるのは、演説でもなく多数決でもなく…鉄と血である』)
鉄血政策とフランスの打破
彼は『鉄血政策』によって富国強兵を進め、まずライバルのオーストリアを誘ってデンマークを倒し、更にオーストリアを挑発し、『プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)(1866年)』でヨーゼフ1世率いるライバルのオーストリアを撃破。そして、ドイツからオーストリアを除外し、『北ドイツ連邦』を成立させる。だが、『北』というぐらいだから、『南』の方の地域はまだ納得していない状態が続く。
その後オーストリアは、1867年にハンガリー王国を承認し、オーストリア・ハンガリー帝国となる。
ビスマルクは、隣国フランスこそがドイツ統一最大の障害であると考えた。そのため、彼の異名は『鉄血宰相』である。しかし、当時のプロイセンにはこういう男が必要だったのだ。下記の記事にはナポレオンの甥にあたるナポレオン三世について、こう書いた。
プロイセンの老練ビスマルクに挑発され、『普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)』を起こし、捕虜にされてしまうという失態も招く。そして、彼の時代第二帝政は終わりを迎えた。
踊る要人と、憤る民衆。ナポレオンが引っ掻き回した世界の後始末『ウィーン会議』とその体制の崩壊
1870年、ビスマルクはナポレオン3世を挑発し、普仏戦争を起こす。
ドイツ帝国誕生
しかし、挑発に乗ったナポレオン3世とは違い、ビスマルクは入念に準備をしていたのだ。そのおかげでビスマルクは彼を筆頭とするフランスを倒すことができ、翌年にはフランスの『太陽王』ルイ14世が20年かけて作ったフランスのヴェルサイユ宮殿で、ヴェルサイユ宮殿で『ドイツ帝国(1871年 – 1918年)』の成立が宣言されたのである。
ビスマルクは、フランスという『共通の敵』に焦点を当てることで、国民の気持ちを一つにした。そして、鉄血政策によって力強さもアピールし、見事フランスを打ち砕くことで、プロイセン国民から認められたのである。
この絵はプロイセン(紺色)を中心として、ドイツの国家統一が成立したときのヨーロッパを現した風刺画である。各国の視線がプロイセンに集まり、フランス(ピンク)は銃と剣を手ににらみつけ、ドイツ、フランスとの戦争を示唆している。イギリス(黄色)は顔こそ左にあるアイルランドに向いているが、視線はしっかりとプロイセンに向いている。そしてオーストリア(黄色)は戦争に負けたため、プロイセンに足蹴にされている。
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