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『ローラット法』という理不尽な仕打ちにネルー、ガンジーらが立ち上がる!『インドよ!独立の時だ!』

ハニワくん

先生、質問があるんですけど。
では皆さんにもわかりやすいように、Q&A形式でやりとりしましょう。

先生

いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!

  1. ローラット法って何?
  2. ジャワハルラール・ネルーは何をした人?

1.インド人というだけで、令状なしで逮捕や裁判なしの投獄ができる法律です。

2.自治のレベルを超えて完全な独立を求め、インドの初代首相となった人です。

ハニワくん

なるへそ!
も、もっと詳しく教えてくだされ!

博士

インドはイギリスにとって有力なエリアでした。

それは、『戦力』と『収入源』という意味でです。戦力というのは単純に『人の数』で、イギリス軍の10人に1.3人がインド人だったと言われています。また、植民地としての収入源も捨てがたい利益です。すべてはイギリスという国の為にインド人はありとあらゆる権利を牛耳られたのです。

 

インドは何とかして独立しようと(自由になろうと)しますが、イギリスは何とかしてそれを阻止します。様々な『形だけの約束』をしてはごまかし、問題を先延ばしにしてうやむやにし、独立を防いでいたのです。『ローラット法』というインド人というだけで、令状なしで逮捕や裁判なしの投獄ができる法律を作ったりして、違う約束を帳消しにしたりするなどして、独立はどんどん遠のいていきました。しかし、

 

 

といった人物たちを中心に、インドは独立に向けて本格的に動き出します。第一次世界大戦が終わった直後、イギリスがインド支配に躍起になっていたのは、イギリス自体もその体制を維持するために追い詰められていたからでした。

うーむ!やはりそうじゃったか!

博士

ハニワくん

僕は最初の説明でわかったけどね!
更に詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。

先生

インド独立

『ローラット法』

ヴィクトリア女王は2人いた?『大英帝国』黄金期の象徴が持つ真の姿とは

ムガル帝国があり得たのはアクバルが宗教の多様性を尊重したからだった!そして『インド帝国』へ!

 

上記の記事の続きだ。更に、下記の記事にヒンズー教とカースト制度に対する、ガンジーの立ち居振る舞いをまとめたが、ここではそこに書いたように、『インド独立の父』としてのガンジーを軸に、インドがイギリスからどう独立したかについて見てみよう。

 

その男『ガンジー』。負の連鎖に立ち向かった男はブッダだけではなかった!

 

インド国民会議

インド大反乱』の後、ヴィクトリア女王が『インド帝国』の初代皇帝(在位:1877年1月1日 – 1901年1月22日)に即位し、インドは『大英帝国』として黄金期を迎えた。しかしもちろん植民地となったインド人はイギリスに不満を覚える。そこでイギリスは1885年、英領インドのボンベイ(現・ムンバイ)で、72人の代表を集めて『インド国民会議』を実施。このような対策を使ってインド人の不満を聞き、不和を解消させようとした。

 

[インド国民会議]

 

ベンガル分割令

しかし、中々不満が解消されないのでイギリスはインド人の目を別の方向に向けようとする。『ベンガル分割令』である。当時、ベンガル州は独立運動が最も激しく、ここにある『イスラム教VSヒンズー教』の火種に火をつければ、問題が更に悪化し、目を逸らすことができると考える。そして、1905年、イギリスの政治家であり、インド総督カーゾン卿によってこの法令が出された。

 

イギリスは、イスラム勢力が強かった東ベンガルに大幅な自治を認め、ヒンズー教勢力の猛反発にあった。彼らはそれがイギリスが絵を描いたシナリオだとわかっていたのだ。その後、インド国民会議で反イギリス活動が活発化してしまう。

 

[東ベンガル、アッサム地方の地図]

 

全インド・ムスリム連盟

しかし、イギリスも強行突破に出る。東ベンガル内イスラム勢力が親英に一気に傾いたため、イギリスはこの機に、確固たる親英組織をインド国内に作ることを模索し、1906年、アーガー・ハーン3世を総裁として『全インド・ムスリム連盟』が結成された。それによって、徹底的にインド内で仲間割れをさせようとしたのだ。そして1907年、ダッカで三大綱領が採択された。その内容は、

 

  1. イギリスへの忠誠
  2. ムスリムの利益の保護
  3. 目的に沿う他教徒との提携

 

というものであった。

 

 

インド統治法

その後、1914年に『第一次世界大戦』が勃発。

 

ドイツ側

三国同盟 ドイツ、オーストリア、イタリア
バルカン半島での同盟国 ブルガリア、オスマン帝国

ロシア側

三国協商 ロシア、イギリス、フランス
バルカン半島での同盟国 ルーマニア、セルビア、ギリシャ

 

基本、この『三国同盟』と『三国協商』の戦いになるのだが、少しでも勢力が欲しいのが本音だ。そこでイギリスはインドにも協力を求め、その見返りに戦後の自治の約束をしてしまう。喜んだインドはイギリスを支援し、大量の物資や人員をもって彼らを援護。しかし、あろうことかイギリスはこの約束を破ってしまうのだ。

 

イギリス

よし、それじゃあ約束通り『インド統治法』を制定しよう!

 

1919年、イギリスは州政府に部分的な自治を容認する『インド統治法(12月23日)』を実施するが、それは形だけのものだった。

 

 

ローラット法

だが、その前に制定された『ローラット法(3月21日)』がひどかった。インド独立運動を抑圧する法律で、これのせいでインド統治法は無意味なものになったのだ。

 

ローラット法

インド人というだけで、令状なしで逮捕や裁判なしの投獄ができる法律。

 

[ローラット法制定の中心人物シドニー・ローラット]

 

こんなに理不尽なことはない。インド人がこれに逆らい、抗議集会を開くと、イギリス軍はこれを力づくで弾圧。1500人以上の死傷者が出る大騒ぎとなった。『アムリットサール事件』である。そこで登場するのがガンジーだというわけだ。彼の行動については冒頭の記事に書いたので、そちらで確認していただきたい。

 

ガンジーはジャワハルラール・ネルーチャンドラ・ボースらと共にインド独立に貢献した。ネルーはその後主導権を握り、自治のレベルを超えて完全な独立を求め、インドの初代首相となる。

 

[ネルーとガンディー(1942年)]

 

新インド統治法

しかしそれはまだ先のことだ。イギリスはまずインドに自治を与えるために行動するが、ネルーらがそう対応してきたため、話し合いが難航。1935年、自治の範囲を広げる『新インド統治法』を制定するが、これではまだネルーらが納得する『独立』とは程遠かった。イギリスはイギリスで、インドという『大切な収益源(植民地国)』を失うことを避けたかったのだ。

 

下記の記事に書いたように、『第二次世界大戦後』、ヨーロッパを制していたはずのイギリスやフランスが転落した理由は、

 

  1. 自国が戦場になり荒廃してしまった
  2. 植民地を失ってしまった

 

というものだった。つまり、第一次世界大戦が終わったこの直後、イギリスがインド支配に躍起になっていたのは、イギリス自体もその体制を維持するために追い詰められていたからだった。

 

[ネルーとタゴール(1940年)]

 

ガンジーは人々の支持を得て、『マハトマ(偉大な魂)』という尊称を得た。この名前はインドの詩聖タゴールから贈られたものだった。

 

中田敦彦のyoutube大学

オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこの時代までのインド史をまとめた人気動画があります。

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