ハニワくん
先生
いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
- 第一次中東戦争(1948年5月15日 – 1949年3月10日)の原因は?
- その内容と結果は?
- 第二次中東戦争(1956年10月29日~1957年3月)の原因は?
- その内容と結果は?
- 第三次中東戦争(1967年6月5日 – 6月10日)の原因は?
- その内容と結果は?
- 第四次中東戦争(1973年10月6日 – 10月24日)の原因は?
- その内容と結果は?
少し長いので分けて応えましょう。
第一次中東戦争(1948年5月15日 – 1949年3月10日)
1.ユダヤ人のイスラエル建国までの過程とその一連がアラブ人にとって理不尽だったからです。
2.アメリカという超大国の支援があったため、イスラエルの圧勝に終わりました。
第二次中東戦争(1956年10月29日~1957年3月)
3.英仏の所有物でもあった『スエズ運河』を2代エジプト共和国大統領のナセルが国有化宣言したからです。
4.英仏がイスラエルを誘ったのが問題となり、『民族対立を利用する悪者』という目で見られ、彼らはエジプトから退くしかなく、エジプト側の勝利となりました。
第三次中東戦争
5.アラブ人が『パレスチナ解放機構(PLO)』を設立し、イスラエルがその勢力を阻止しようと先制攻撃を行なったからです。
6.パレスチナとシナイ半島の全域を占領し、またしても戦いはイスラエル側の圧勝で終わりました。
第四次中東戦争
7.アラブ人が失った領地を奪回しようとエジプトとシリアを攻撃したからです。
8.アラブ側が豊富な石油資源という武器を駆使し、『第一次オイルショック』を引き起こし、支援国アメリカを翻弄して妥協させ、アラブ側がシナイ半島のガザ地区、ヨルダン川西岸地区を奪回するこことに成功しました。
ハニワくん
博士
第二次中東戦争以外は『ユダヤ人VSアラブ人』という対立構造が原因でした。
しかしこの中東戦争は別の側面もあって、アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対し支援や武器を供給していたことから、この中東戦争は代理戦争の側面も含むと言われていたのです。アメリカとソ連の冷戦はちょうど『1947-1991年』に行われていました。この中東戦争はすべてその冷戦の期間内に行われたことです。第二次世界大戦後の戦争は、大体がこの冷戦が関連していて、『資本主義陣営(アメリカ側)VS共産主義陣営(ソ連側)』の代理戦争なのです。
しかし、元々パレスチナの地はアブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)という『考え方が分裂した宗教の人々』にとって聖地であり、アイデンティティ(身分証明)の地。これを死守し、聖地として正当化することで彼らは自分たちの人生を力強く生きていることは間違いありません。その強い意志の為に軋轢が生じ、確執を生み、戦争までに至った。一つだけ言えることは、『彼らの神』はきっと人が争うことを望んではいないということですね。神がいくら正しくても、『人は間違える』。戦争は、間違った人間が生み出した失敗(判断ミス)なのです。
ちなみに、アダムとイブが降り立ったとされるカシオン山はシリアにありますが、この場所も常に内戦状態が続き、国民の半分が避難民となっている状況が続いています。
博士
ハニワくん
先生
Contents|目次
中東戦争
『中東戦争』
イギリスの三枚舌外交が原因で発生した『パレスチナ問題』!ユダヤ人『返せ!』アラブ人『こっちのセリフだ!』
上記の記事の続きだ。『現代イスラエルの父』とも言われ、シオニズム運動にも理解があるロスチャイルド家のエドモンも、ユダヤ人のイスラエル建国は反対していた。しかし、シオニズム運動は遂行された。
第一次中東戦争(1948年5月15日 – 1949年3月10日)
1948年にイスラエル独立宣言があったその年に、すぐに『第一次中東戦争』が勃発。結果はイスラエルの圧勝に終わった。それはアメリカという超大国の支援があったからだった。
1949年の休戦協定で、イスラエルはパレスチナの8割を占領することになる。もともとは『6割』だったが、戦争に勝ったので『8割』になったのだ。そしてアラブ人はイスラエルを追い出される形となり、およそ100万人のアラブ人が『パレスチナ難民』となり、周辺諸国をさまよった。
第二次中東戦争(1956年10月29日~1957年3月)
1952年に起きた『第二次中東戦争』は、アラブ人は関係ない。『イスラエルVSエジプト』だ。しかし、イスラエル側にはフランスとイギリスがいた。むしろ、フランスとイギリスが『第一次中東戦争』で共闘したイスラエルをけしかけ、この戦争を起こしたのだ。
フランスとイギリス
[第二次中東戦争 青い矢印はイスラエル軍の進路(1956年11月1日~5日)]
なぜエジプトを襲ったかというと、そこには『スエズ運河』が関係していた。下記の記事に書いたように、ヴィクトリア女王時代に側近のベンジャミン・ディズレーリが筆頭となり、イギリスや『スエズ運河』の買収を行っていた。スエズ運河の株主にはフランスもいた。しかし、そのスエズ運河を第2代エジプト共和国大統領のナセルが国有化宣言したのだ。
[ガマール・アブドゥル=ナーセル]
ヴィクトリア女王は2人いた?『大英帝国』黄金期の象徴が持つ真の姿とは
下記の記事に書いたように、ナポレオンのエジプト遠征の際に、オスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任したムハンマド・アリーは、エジプトをオスマン帝国から独立させ、『ムハンマド・アリー朝』の王となった。そこから1952年まで続いた王朝だったが、1952年にナセル(ガマール・アブドゥル=ナーセル)が『エジプト革命』にて最後の王ファルーク1世を亡命に追い込み、初代エジプト共和国の大統領となったナギブを軟禁し、大統領に就任。巷では、彼は『王制を打破したアラブ世界の英雄』と噂されるほどだった。
1500年続いた『ローマ(東ローマ帝国、ビザンツ帝国)』を終わらせた『オスマン帝国』の盛衰
この時、世界は『独立ブーム』とも言える波が来ていた。
アジア
独立年 | 国名 | 独立前の宗主国 |
1945年 | ベトナム民主共和国 | フランス |
1946年 | フィリピン共和国 | アメリカ |
1947年 | インド連邦 | イギリス |
パキスタン・イスラム共和国 | イギリス | |
1948年 | 大韓民国 | 日本 |
朝鮮民主主義人民共和国 | 日本 | |
ビルマ連邦共和国 | イギリス | |
1949年 | インドネシア連邦共和国 | オランダ |
1953年 | カンボジア王国 | フランス |
1957年 | マラヤ連邦 | イギリス |
アフリカ
1957年 | ガーナ共和国 | イギリス |
1958年 | ギニア共和国 | フランス |
1960~1961年 | カメルーン共和国 | フランス、イギリス |
1960年 | コートジボワール共和国 | フランス |
コンゴ共和国 | ベルギー | |
セネガル共和国 | フランス | |
ソマリア民主共和国 | イギリス、イタリア | |
チャド共和国 | フランス | |
中央アフリカ共和国 | フランス | |
トーゴ共和国 | フランス | |
ナイジェリア連邦共和国 | イギリス | |
ニジェール共和国 | フランス | |
ベナン共和国 | フランス | |
マダガスカル共和国 | フランス | |
マリ共和国 | フランス | |
1962年 | アルジェリア民主人民共和国 | フランス |
ウガンダ共和国 | イギリス | |
1963年 | ケニア共和国 | イギリス |
1964年 | ザンビア共和国 | イギリス |
マラウイ共和国 | イギリス | |
1965年 | ガンビア共和国 | イギリス |
エジプト時代はムハンマド・アリー時代にオスマン帝国から独立させていたが、王制を打破し、『エジプト共和国』に大きく貢献したのが、このナセルだった。こうした大きな時代のうねりの力も手伝って、ナセルの鼻息は荒かった。イギリスが建設を主導する予定だったアスワン・ハイ・ダムの建設を再開し、建設費用獲得のために1956年7月26日、スエズ運河の国有化を宣言した。そしてそれに英仏が反発し、『第二次中東戦争』が勃発したのだ。
[スエズ運河の位置と衛星写真]
しかし、イスラエルを誘ったのが良くなかった。それによってこの戦争が、『民族対立を利用したイギリスとフランスの越権行為』という目で見られ、彼らはエジプトから退くしかなく、エジプト側の勝利で幕を閉じた。
第三次中東戦争(1967年6月5日 – 6月10日)
その間アラブ人はというと、着々とイスラエルからのパレスチナ奪還計画を進めていた。1964年1月の第一回アラブ首脳会議で成立したアラブ連盟により、パレスチナ難民の帰還を目標にした『パレスチナ解放機構(PLO)』が設立される。パレスチナ人の対イスラエル闘争の統合組織となり、反イスラエルの中心勢力となった。
PLOがイスラエルへ武力闘争を開始すると、イスラエルはそれをどうにかしようと立ち上がる。ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった1967年6月5日、イスラエルは、
- エジプト
- イラク
- シリア
- ヨルダン
の空軍基地に先制攻撃を行なった。こうして『第三次中東戦争』が勃発。パレスチナとシナイ半島の全域を占領し、またしても戦いはイスラエル側の圧勝で終わった。もはやパレスチナにアラブ人の住む場所はなくなってしまったのである。
[第三次中東戦争においてイスラエルが占領した領土 (肌色の部分)。白い丸の部分がチラン海峡。]
第四次中東戦争(1973年10月6日 – 10月24日)
しかしアラブ人は諦めていなかった。1973年、失った領地を奪回しようと、
- エジプト
- シリア
がイスラエルに攻撃を開始。『第四次中東戦争』が勃発する。しかし例によってイスラエル側の圧勝となりかけるが、アラブ側もそう何度も何度も負け戦を仕掛けるほど馬鹿ではなかった。そもそもイスラエル側がこんなに強いのは、かつてホロコースト問題で世界がユダヤ人の味方をし、アメリカという超大国のバックボーンを得たからだ。そこでアラブ側も、『自軍以外の力』に目を向け、それを取り込んで威圧する作戦を企てる。『OAPEC(アラブ石油輸出国機構)』である。
『第二次世界大戦』が終わった後のその時期、アメリカに対抗するためにまず考えるのは『ソ連』だ。だが、実はすでにソ連はアラブ側の支援を行っていた。アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対し支援や武器を供給していたことから、この中東戦争は代理戦争の側面も含むと言われていたのだ。
イスラエル | アメリカ・イギリス・フランス |
アラブ側 | ソ連 |
『資本主義アメリカ』VS『社会主義ソ連』!44年間続く『冷戦(Cold War)』が始まった
つまり、もはやソ連は当てにならない。そこで考えたのが『OAPEC(アラブ石油輸出国機構)』である。アラブ側の武器と言えば、豊富な石油資源だ。そこで1968年、OAPECを結成。そして『第四次中東戦争』が始まった1973年10月17日には、イスラエルを援助するアメリカとオランダへの石油の禁輸を決定し、さらに非友好的な西側諸国への石油供給の段階的削減を決定。石油戦略と呼ばれるこの戦略によって世界の石油の安定供給が脅かされ、原油価格は急騰して世界で経済混乱を引き起こした。『第一次オイルショック』である。
原油価格が高騰してオイルショックが起こり、混乱した世界経済を何とかしようと、アメリカは調停に入る。そして、アラブ側がシナイ半島のガザ地区、ヨルダン川西岸地区を奪回するこことに成功したのである。
中東戦争の概要
第一次中東戦争 | 1948~1949年 | イスラエルVSアラブ側 |
第二次中東戦争 | 1956~1957年 | フランス・イギリス・イスラエルVSアラブ側 |
第三次中東戦争 | 1967年 | イスラエルVSアラブ側 |
第四次中東戦争 | 1973年 | イスラエルVSアラブ側 |
第一次中東戦争ではイスラエルが圧勝し、第二次中東戦争ではフランスとイギリスが世界の非難を浴びて撤退し、エジプトのナセルがスエズ運河の国有化に成功。第三次中東戦争ではイスラエル軍が圧勝し、パレスチナを完全掌握。しかし第四次中東戦争でアラブ側が『オイルショック』を起こし、パレスチナ領地の一部を奪回する。
エジプト・イスラエル平和条約
その後も『パレスチナ問題』は尾を引くばかりだ。1979年3月26日、アメリカ合衆国・ワシントンD.C.で『エジプト・イスラエル平和条約』が署名された。しかし、ナセルの次の第3代エジプト大統領のサーダートが、イスラエルとの和平条約調印後、同条約ならびにイスラエルとの国交樹立に強く反対する「ジハード団」によって暗殺された。
1987年、イスラエルが占領していたガザ地区で、パレスチナ人による民衆蜂起『インティファーダ』が始まった。1年の間500人以上の死者が出て、これが世界に報道され、イスラエルの批判が高まり、『オスロ合意』につながる。
オスロ合意
PLOは、テロやハイジャックなどの過激な行動で訴えていたが、穏健路線に転じ、1993年、パレスチナの初代大統領であり、PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相が、イスラエルの占領地の一部でパレスチナ人の自治を認めることで合意した。これが『オスロ合意』である。
オスロ合意
- イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する。
- イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する。
[調印後に握手をするイスラエル・ラビン首相とPLOアラファト議長。中央は仲介したビル・クリントン米大統領]
PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相は同時にノーベル平和賞を受賞。しかし、1995年にラビン首相が急進派によって暗殺され、イスラエルで再び強硬派が政権を握り、ユダヤ人入植地を広げる等の政策を展開。また、1987年12月14日にアフマド・ヤーシーンによってムスリム同胞団のパレスチナ支部を母体とした強硬派の『ハマース』が創設された。現在も不安定な状態が続いている。
[ハマースのポスター。ハマースが拉致していたイスラエル兵ギルアド・シャリートの写真を戦闘員が手にしている]
アメリカ同時多発テロ
そして事件は起こった。『2001年9月11日』にあった、同時多発テロである。
いつまでもイスラエル(ユダヤ人)側につくアメリカに対し、度重なるテロが行われた。また、2000年からの『第二次インティファーダ』では、パレスチナ人が自爆テロによって抵抗活動を行った。
エルサレムの歴史
ここで一度まとめよう。モーセがヘブライ人をエジプトの奴隷から解放させ、『海を割り』、脱出させてから、イスラエル王国ができ、その後、
- アッシリア
- ペルシャ帝国
- マケドニア王国
- ローマ帝国
という4つの帝国すべてに支配されてきた歴史を持つのがこのエルサレムだ。そう考えるとかなりこじれた場所である。この4つの帝国はまさに『世界で初めてできた帝国アッシリア』からローマ帝国まで、この順番でヨーロッパの覇権を獲った帝国だから、エルサレムはそのすべてに振り回されてきたということになる。更にそこに『宗教問題』が加わるわけだ。
サラディンによって再びイスラムの支配下へ。オスマン帝国の支配下で、各宗教間の共存状態となる。
一体なぜこうなってしまったのだろうか。すべての発端は、何だったのだろうか。単純に、『パレスチナ問題』なのだろうか。それとも、『宗教の多様性』なのだろうか。私はこれらの問題を総じて考えて、以下の記事を捻出した。これなら、
- この世に存在するすべての宗教
- この世で発生するすべての争い・テロ・戦争
の存在理由と、そしてその妥当性が明白になる。『真理(神・愛)』から逸れると、虚無に近づく。つまり、誰かの心が虚無になるのなら、その時、真理(神・愛)はないがしろにされたのだ。
『世界平和の実現に必要なのは『真理=愛=神』の図式への理解だ。』
『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。』
中田敦彦のyoutube大学
オリエンタルラジオの中田敦彦さんがこのあたりの中東の歴史をまとめた人気動画があります。
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