『鎌倉時代到来』
源氏の英雄『源義家』!平氏の実力者『平清盛』!そこへかつての巨大勢力『藤原氏』が乱入!
上記の記事の続きだ。鎌倉時代とは、1185年頃 – 1333年のおよそ150年間のことを言う。日本史で幕府が鎌倉(現神奈川県鎌倉市)に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つで、朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう呼ばれている。
1081年、白河天皇の警護をしたあたりから『北面の武士』として活躍した源氏の源義家。彼が地方で『源氏の英雄』と慕われ、武士の存在感を引き上げ、そして平氏の平清盛が『源義親の乱(1107年)』で、武士の中心を源氏から平氏に代えた。その後平氏は圧倒的な力を得るが、源氏である源頼朝や、その異母弟の義経が平氏を撃沈。こうして源氏が鎌倉幕府を作り、本格的な武家政権による統治が開始したのである。
では、ここまでの天皇の歴任を見てみよう。1167年、平清盛は六条天皇の時代に朝廷の最高位である太政大臣となった。
その後、平氏の勢力は全盛期を迎え、後白河法皇がその勢力に目をつけ抵抗する。更に、その子である『以仁王(もちひとおう)』が源氏の一族の源頼政(よりまさ)を味方につけ、1180年に『以仁王の令旨(りょうじ)』を出し、全国の武士を鼓舞。そして『打倒平氏』の勢力が沸き上がり、『富士川の戦い』で平氏はついに敗北する。
だが、後白河法皇は、次に源氏が目障りになる。そして、
- 源頼朝
- 源義経
といったの源氏の有力者兄弟を仲間割れさせ、義経が岩手県平泉に逃げ、そこでかくまった藤原泰衡ともども、頼朝率いる鎌倉幕府に敗北してしまった。それが1189年のこと。つまり、その4年前の1185年に、頼朝は京を追われた平氏一門を、長門壇の浦で滅亡させ、『鎌倉幕府』を樹立していたのだ。
かつての藤原氏と違って、武士上がりの平氏の時代が長く続かなかったのは、地方武士の支持を得られなかったからだという。平氏は下記の記事に書いたように、以下のような方法で力を得ていった。
- 全国66国のうち30国を平氏が支配した
- 荘園が全国に500か所以上もあった
- 『日宋貿易』という中国の『宋』との貿易でも大きく稼いだ
- 全国の武士を『地頭(じとう)』に任命し、土地の管理と治安維持を行わせた
- 平氏一門を国司として全国に配置し、東日本にまで勢力を伸ばした
天下を取り、越権的だった平氏に『以仁王の令旨』で全国の武士が立ち上がる!『平氏を潰せ!』
だが、この『平氏一門への優遇』が良くなかったのだ。これによって平氏一門は短期的に『特権の乱用』ができたが、これによって各地の国司や武士たちが阻害され、恨みを買うことに繋がったのだ。
地方の武士たち
そこで頼朝は、このような阻害された人々を御家人として組織し、所領を保障することで『源氏』の力を『平氏』以上に引き上げたのだ。
貴族や武家棟梁の従者をつとめた武士。
- 侍所(さむらいどころ)
- 公文所
- 問注所
などの政府機関を置き、関東の公領や荘園などを強化し、
- 守護
- 地頭
を設置する権利を得て、本格的に受け政権を樹立させたのだ。そして1192年に征夷大将軍となり、名実ともに『鎌倉幕府』が成立する。鎌倉時代をこの1192年からと考えることもあるが、実際には1185年にすでにこの動きがあったため、1185年から数えるのが相場となっている。
征夷大将軍がつくった政権。
頼朝が鎌倉を選んだのは、この地が源氏ゆかりの土地だったからだ。地の利もあった。周囲を小高い丘が囲み、南に相模湾を望む鎌倉はまるで『天然の要塞』だったのだ。現在、『鶴岡八幡宮』の目の前には一直線の道があり、それがそのまま由比ガ浜へとつながっているのを見ることができるが、頼朝は、この大路を軸にして、住宅や道路を建設し、周囲の山に『切り通し』という狭い通路を作って、この要塞を強固なものにしていった。
[鎌倉 鶴岡八幡宮と鎌倉大仏 筆者撮影]
下記の記事に書いたように、かつて、朝廷に逆らう勢力として、北に『蝦夷』、南には『隼人』という存在があった。そこで政府は、
- 征隼人持節代将軍
- 征夷大将軍
として使者を送り、鎮圧を命じる。つまりこれらは『隼人を征服する』、『蝦夷を征服する』ための将軍だった。ここから『総大将』的な意味でよく使われる『征夷大将軍』の名が誕生したのである。
東の果てにアカシシにまたがり石の矢じりを使う、勇壮なる蝦夷の一族あり。アシタカの祖先『アテルイ』とは?
つまり『幕府』というのは、『警察、軍隊』に近い立場だ。
政府
こうしてこの国に『幕府』が誕生し、本格的に武士たちが力を持ち始めるのである。下記の記事に書いた『寄進地系荘園』が誕生した経緯のところで、
納税の取りこぼしを回収するために、国司に権力を与え、力をふるうようになった債権回収的な立場の国司たちから身を守るために、『みかじめ料』的な利益を与えて有力貴族に保護してもらい、武装集団を作って『武士』が登場し、それが後の『任侠』、そしてやくざの端緒となったのではないか
と推測した。この頃から武士の存在が見え隠れし始め、そして平将門が東日本で暴れ回ってこの国に『武士』が大きく産声を上げたわけだ。
[豊原国周「前太平記擬玉殿 平親王将門」]
そして、様々な争乱を通し、『平氏、源氏』という武士が登場して『藤原氏』といった貴族たちよりも力を持つことになる。源氏が力を持ったら平氏がそれを鎮め、平氏が力を持ったらまたそれを源氏が鎮圧して、といったシーソーゲーム(源平合戦)を続け、そして結局この時、源氏である源頼朝が鎌倉幕府を作り、『本格的に武士が国の治安を守る』という形が作り上げられたのだ。
この時、そのような王道コースを行って『幕府』の立場で公式の武力行使を行う武士と、そうじゃない『非公式の武士』とに分かれたはずだ。武士といっても色々いるし、人間には人間の数だけ色がある。そんな中、倫理に背いて不義理を行う者もいれば、任侠的な考え方で、『非公式の自警団』の方向に行く者もいただろう。
石川五右衛門のように『善き泥棒』になる人もいれば、どこかの用心棒のように『凄腕の一匹狼』のような者もいたはずだ。公式の幕府とは違う形で自警団(武士)が動いて、それがそれぞれの思惑で行動し、そこから小さな文化と歴史を作った。その流れの中で『賭博』だとか、そうした娯楽が相まって、『度が過ぎた遊び』などの文化と入り混じり、源義家のような『小規模だが厚い人望』を得る人物などが出て、そこに宗教などの『崇拝、神格化』現象も相まって、徐々に特殊な人間関係と人生観が作られていった。
かつて源頼朝が自分の家来にポケットマネーで報酬を出し、武士の結束が固まったという。そして、義家が一躍『源氏の英雄』となり、源氏の鼻息は確実に荒くなっていった。
源氏の英雄『源義家』!平氏の実力者『平清盛』!そこへかつての巨大勢力『藤原氏』が乱入!
そしてそうした特殊な人間観を持った人々が『やくざ』となり、それが腐敗し、『暴力団』という名がふさわしい、単なる悪人集団となっていった。そういう一つの水脈が、こうした歴史の中から何となく見えるのである。
だがとにかくこのようにしてかつての武士は、『公式』に国にその存在を認められ、『幕府』という組織として軍事政権を持ち、朝廷の敵を倒して治安を守るようになった。しかし、やくざの話を持ち出したのは余談ではなく、確かに当時の時代、『京都にいる国の主役』たちは、彼ら武士たちを見下していたのだ。優雅な生活を送っていた彼らからすれば、刀を持ち、人を斬る。そういった暴力を軸にして生きる成り上がりの野良侍たちは、禽獣(きんじゅう)のように映った。
下記の記事にも書いたが、古代から中華は『天子』を津中心とする中華王朝が最上の国家体制で、それにどうかしない四方の異民族は、禽獣(きんじゅう)に等しいものとして、『四夷(しい)』と呼ばれていた。
東夷(とうい) | 日本、朝鮮等 |
西戎(せいじゅう) | 西域諸国等 |
南蛮(なんばん) | 東南アジア、西洋人等 |
北狄(ほくてき) | 匈奴等 |
前漢で暴れまわった『武帝』。後漢で静かに天下平定させた『光武帝』。
日本もこの『四夷(しい)』の一つであり、見下す対象だったのだ。そしてその日本の中でも、貴族から見た武士は、禽獣と同じだった。つまり、彼らの間には大きな隔たりがあったのだ。当時の絵巻物には公卿が立ったまま笏で支持するのに対し、武士は地面にひざまづき、これを受けているのがわかる。しかし、源頼朝が開いたこの鎌倉幕府の存在は、こうした状況を覆すことになったのだ。
したがって、鎌倉時代というのは日本史の上で『極めて重要な転換期』だと言えるのである。下記の記事に書いたように、ろくに記録がないヤマト政権時代から続いた日本史だが、縄文、弥生、古墳時代を経て、飛鳥、奈良、平安は奈良や京など、畿内に本拠を置く帝(みかど、天皇)を中心に朝廷が政権を担ってきた。
しかし、この鎌倉幕府の登場によって日本の舞台の中心は東国、つまり東日本の武家に移り、日本人の内面的な問題にも大きな変化があった。例えば生活に余裕のある公卿たちのように、優雅な貴族文化や思想を持って生きるのではなく、『武士道精神』の根幹となる考え方が生み出された。
貴族たちと違って武士は、『人を斬り殺す道具』を持ち歩き、自分もいつその刃を向けられるかわからない、そういう緊張感の中で生きることを強いられたわけだ。すると、そういう人たちに備わる精神というものは、自然と自分に厳しいものになる。
新渡戸稲造の著書、『武士道』は、実にそうそうたる人物と照らし合わせ、その道について追及していて、奥深い。キリスト、アリストテレス、ソクラテス、プラトン、孔子、孟子、ニーチェ、エマーソン、デカルト、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、枚挙に暇がない。本にはこうある。
『武士道においては、名誉の問題とともにある死は、多くの複雑な問題解決の鍵として受け入れられた。大志を抱くサムライにとっては、畳の上で死ぬことはむしろふがいない死であり、望むべき最後とは思われなかった。』
武士道が掲げる”7つの神髄”
- 『義』─武士道の光輝く最高の支柱
- 『勇』─いかにして胆を鍛錬するか
- 『仁』─人の上に立つ条件とは何か
- 『礼』─人とともに喜び、人とともに泣けるか
- 『誠』─なぜ『武士に二言はない』のか
- 『名誉』─苦痛と試練に耐えるために
- 『忠義』─人は何のために死ねるか
著書にはこのようなことが書いてあり、『武士道』という道がどういう道であったか、一目瞭然となっている。上に挙げた『7つの神髄』を考えただけで、『武士道』という精神が当たり前に蔓延していた時代の人間が、どれだけ高潔な精神を追求していたかがよくわかる。
安岡正篤もこう言ったが、
明治を生きた日本人の心にも、ここで生まれた武士道精神は受け継がれてきた。更に本にはこうある。
『武士道においては不平不満を並べ立てない不屈の勇気を訓練することが行われていた。そして他方では、礼の教訓があった。それは自己の悲しみ、苦しみを外面に表して他人の湯快や平穏をかき乱すことがないように求めていた。』
この時代、明日の命も知れぬ厳しい日々を送る武士たちは、感情を抑えるようしつけられた。『男は三年に片頬』といわれるように、笑顔を人に魅せず、人前で涙を流すことを恥じ、そして畳の上で死ぬこともまた、恥だった。
例えば武士の行う『切腹』だが、それを調べると、古くは988年に藤原保輔(ふじわらのやすすけ)が事件を起こして逮捕された時に、自分の腹を切り裂き自殺をはかり翌日になって獄中で死亡したという記録が残っている。しかし彼自身は強盗を行って逮捕されていて、武士とは違う立場にあった。その次の記録はもう1400年の話になっている。
そこで私が歴史を旅していて推測するのは、冒頭の記事でも書き、先ほども前述した『源義経』だ。彼はあのチンギス・ハンと同一人物だと本気で信じられていたほど、軍才にあふれる武士だった。
[盗賊の熊坂長範と戦う義経。伝説では、この時、義経は15歳であったという。]
参考書『ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで』にはこうある。
秀衡の子、泰衡は、鎌倉幕府を恐れ、星常の居館・衣川館を襲う。義経を護る兵はごくわずか、義経は覚悟を決め、自害して果てた。
武士の存在を飛躍させたのは、間違いなく『源氏と平氏』だった。その中で、特に軍才があったのはこの義経だ。その武士であった義経は、自分の最期として自害を選んだ。これが1189年のことだ。もしかしたら『武士の切腹』というのは、この義経が発端なのかもしれない。それほどまでに、この人物は可能性とカリスマ性を持った人物だったからだ。
さて、先ほど『非公式な武士・自警団』の話をしたが、『御家人』というのは公式の方向で誕生した警護人で、『守護』というのはこの御家人らを取りまとめて派遣する『県の警察長官』のような立場にあった。『地頭』は各地の公領や荘園の治安維持を行った。
御家人 | 将軍の家臣。ここから地頭や守護が任命される。 |
地頭 | 各地の公領や荘園の治安維持を行う。 |
守護 | 御家人の指揮、総括。国内の軍事・警察を担う。 |
つまり、まだ現在の『警察官』にあたるような立場は存在していない。治安を守るのは共通するが、まだ地頭などは特定の地域だけの警備だし、守護は謀反人や殺害人などを逮捕するが、県の警察長官の立ち位置だから上の方にいて、細かい部分にまで目が行き届いていない。
ここから400年後ほどの1600年、江戸時代には警察に相当する役所として町奉行所があった。江戸には南北の町奉行が、諸国には地名を冠した遠国奉行があり、その職員である『与力、同心』といった存在が現在の警察官に相当する立場となる。こうした背景も、『非公式の自警団』の流れを作り出したはずである。
江戸時代で初めて『警察』らしき立場ができる
警察 | 町奉行所 |
警察官 | 与力(よりき)、同心 |
将軍と御家人は『御恩と奉公(ほうこう)』の主従関係で結ばれていた。
御恩 | 先祖代々の土地の所有の承認、新しい土地の支給 |
奉公 | 幕府の軍事動員や、京・鎌倉の治安維持要因として応じる |
将軍
御家人
このように土地を媒介して主従関係を結ぶ政治制度を『封建制度』という。下記の記事に書いたように、14世紀ほどまでの中世ヨーロッパでは『封建国家』が当たり前だった。『封建国家』となると、複数の主君に仕えることもできる土地のやりとりによる契約関係の集合体となる。しかしこれだと戦争の時に困った。どこからどこまでが仲間で、集まるべきかということが曖昧だったのだ。
上司
部下
そして14世紀頃から『国をあげて戦争ができる国』にするために、『主権国家』という新しい国家のスタイルが確立されるようになった。これによって曖昧だった国教がハッキリとし、より国内で統一的な支配ができるようになったわけだ。
封建国家 | 土地を介しての主従関係だから、主が複数いる場合がある |
主権国家 | 『植民地』ではなく、『独立国』と同義語 |
土地を結んでの主従関係、つまりこうした封建体制があると、そのあたりに多くの主従関係ができ、このような国家レベルの戦争という大事態になったときには、一つの組織としてのまとまりは弱くなるデメリットがあるということだ。
『封建国家→主権国家』へ!権力が国王に集中し『重商主義』に支えられながら『絶対王政』が実現!
当時、先祖伝来の領地を『一所懸命の地』と呼ぶほど大切にしていた武士にとって、こうした対策はかなり嬉しい話だった。下記の記事に書いたように、かつて東日本で大暴れした平将門は、父の良将(よしまさ)の残した領地を守っていくため、朝廷の保証付きの官位が必要で、上京していた。だが、扱いは低く、13年で帰郷したわけだ。記事を見てもわかるが彼はここまではいい青年だった。留守中に伯父の国香(くにか)が土地を勝手に自分のものにしていたのに、それも一度は許したからだ。
しかし、下手に出ていたらそこに付け込まれたのか、何度もこの国香が邪魔をしてきた。そしてやむを得ず彼は伯父も叔父も破り、そこで権力を得たのである。つまりもしかしたらこの時、
- 御恩と奉公のような仕組みがある
- 親族がもっと誠実で賢明である
という条件があった場合、彼は『新皇』と名乗り、死して尚日本を震撼させる最恐の武士にはなっていなかったのかもしれないのだ。
[歌川国芳 「相馬の古内裏」]
『武士』の名を轟かせたのは俺だ!死して尚恐れられた『新皇』平将門はなぜ東日本で暴れた?
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