『内閣・大日本帝国憲法誕生』
脱亜だ!ロシアが来るぞ!早くしないとこの国は呑まれる!『鹿鳴館』を作ってまずは欧米をヨイショだ!
上記の記事の続きだ。朝鮮での甲申政変があったのが1884年。福沢諭吉が1885年に『脱亜論』を発表し、この国は『世界的に遅れたアジアではなく、最前線にいる欧米諸国を追い越せ!追い抜け』という高い向上心を持つ者もちらほら出るようになってきた。そしてその年、この国に『内閣』が作られることになる。
『天皇より内閣づくりを命じられた内閣総理大臣が、各省庁の国務大臣を人選して天皇に任命してもらい『組閣』し、政府とする』
この国の初代内閣総理大臣は、伊藤博文だ。この『内閣制度』に強く影響を与えていたのが『元老』だ。この有力者たちは元々『元勲』と言われ、国政に対して大きな功績があった者をさす。例えば、岩倉具視などは元勲であり、その後元老となった人物だ。
人々
現在とは違って、当時はこのようにして元老が内閣の中心となった。現在の『議院内閣制』は、内閣総理大臣、国務大臣たちの半分以上を選挙で当選した国会議員から選ぶ決まりがあり、民衆の意見が重視されている。しかしこの最初期の段階では、まだまだ国民は後回しだ。冒頭の記事でも『非公式的』に集会を行っていた人々は、徐々に『公式的』な存在になっていく。こうして『政党』がこの国に台頭し始める、と書いたように、徐々に徐々にだ。少しずつ国民にも権利が与えられていく。
[伊藤博文]
それまで長い間、徳川の江戸幕府がこの国を運営してきたのだ。そしてそれ以前にも長い長い歴史があった。ここで急に上に立ったことのない者の意見を集めても、すぐには役に立たないからである。現に、天皇が久しぶりに幕府から政権を譲られた『大政奉還』により、明治天皇はたじろいだという。しかしそこは天皇一族。徐々に慣れてきて頭角を現したが、民衆レベルの人々となると、彼ほど早く責務の認識をすることはできない。
言いたいことを言えばいいというわけではない。現在においても、愚痴を言い、ヤジを飛ばし合う国会の映像を見て、不快に思わない人の方が少ないだろう。あれが更に政治家よりももっと責任感がない人だったらどうなるだろうか。したがって、まずはこういうスタートだった。だが、その元老を含めた『権力者』の中でも競い合いがある。第一次伊藤博文内閣は長州出身だったが、長州・薩摩出身の者が多く、これに反発する者もいた。
人々
明治維新後、有力な特定藩の出身者が政府の要職を独占して結成した政治的な派閥!
伊藤博文は、井上毅(こわし)、金子堅太郎、伊東巳代治(みよじ)と一緒に、ドイツ人のロエスレルを顧問して憲法作成にとりかかる。また、刑法、民放など、憲法以外の法律もフランスをモデルとして作られ始めることになる。幕藩政府に対抗する自由民権派側は、後藤象二郎らを中心として『大同団結運動』を開始。また、
この時あった大きなテーマはこの3つだった。そしてそれを主張した『三大事件建白運動』が発生。政府はそれを鎮圧し、『保安条例』を制定して一切の集会を禁じ、反政府派を追放して運動を抑えた。しかしこのようにして、徐々に国会の準備が整いだす。
憲法が完成すると、伊藤博文はそれを審議する目的で設置された『枢密院(すうみついん)』の議長となるために総理大臣を退く。初代総理大臣の在職は1885年12月22日 – 1888年4月30日。わずか3年だ。二代目総理大臣は、薩摩出身の黒田清隆だった。だが、伊藤博文はこれを含めて計4回も総理大臣になったのだから、よほどの人物だったということがわかる。
[黒田清隆]
まず、儒学・朱子学の実力者に佐藤一斎(1772~1859年)という人物がいて、彼の門下生にこれだけの人物がいた。
その数は6000人ともいわれているが、錚々たる人物の名がここに挙げられることになる。
[佐藤一斎]
『この1000年で最も重要な功績を遺した世界の人物100人』に選ばれた日本人、葛飾北斎登場!
吉田松陰もは1857年に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾には、
- 木戸孝允(桂小五郎)(1833~1877年)
- 久坂玄瑞(1839~1864年)
- 高杉晋作(1840~1867年)
- 伊藤博文(1841~1909年)
- 山縣有朋
- 吉田稔麿
- 入江九一
だ。したがって、吉田松陰の影響下にある人は、佐藤一斎の影響下にあるということになる。まあ、もちろんその源流は孔子だ。儒教の始祖である。何にせよ、儒教の始祖『孔子』、キリスト教の礎『イエス・キリスト』、仏教の開祖『釈迦』、古代ギリシャの哲学者『ソクラテス』の、四名の歴史的賢人、いわゆる『四聖』というのは、この世界に莫大な影響を与えた人間なのである。
1889年2月、こうして日本に天皇が国民に授ける形で『大日本帝国憲法』が発布される。アジア初の憲法は1876年のオスマン帝国が先のため、これはアジア初の近代憲法とはならない。
[憲法発布略図
1889年(明治22年)、楊洲周延画]
1500年続いた『ローマ(東ローマ帝国、ビザンツ帝国)』を終わらせた『オスマン帝国』の盛衰
この憲法は『欽定憲法(きんていけんぽう)』で、書いたように『天皇が国民に授けた』もの。この背景にあるのは、『天皇の権威化』だ。この国を『天皇を中心とした中央集権国家』にするために進んできた幕末と明治維新の流れをくめば、これ自体は妥当の流れだった。だが、冒頭の記事にも書いたように、本居宣長(もとおりのりなが)が古事記を再研究し、平田篤胤(あつたね)が儒教・仏教の影響を排除した影響を排除した『復古神道』を提唱。
尊王攘夷論(幕末のスローガン)
- 天皇>将軍>大名の順に忠義を尽くす
- 日本に近づく異民族は打ち払う
『この1000年で最も重要な功績を遺した世界の人物100人』に選ばれた日本人、葛飾北斎登場!
つまり、
- 本居宣長
- 平田篤胤
- 水戸学
- 孝明天皇
こういった人物たちがこの幕末の時代の日本人の思想に『尊王攘夷』という概念を植え付けた。そして『天皇を中心とした集権国家づくり』、そして『天皇の権限が強い憲法をつくる』。こういう流れになったわけだ。天皇の存在は神聖なもので、何人たりともそれを侵害することはできないというただならぬ気配をまとうようになった。これは、現在でもその余韻が残っていると言っていいだろう。
戦争を知っている人々は皆、過剰ともいえる『天皇崇拝』の発想があった。天皇がラジオで言葉を発すれば、多くの人はそれを正座して聞いた。
当時の人は『天皇』と呼び捨てにすることはできず、『天皇陛下』と呼ぶことが当然だった。私も20代の頃タクシーに乗って、60代くらいの運転手と天皇の話をすると、
運転手
と言って怪訝な顔をしたのを覚えている。時間としてはここから130年ほどの時間しか経っていないが、幕末のこの時代でも国家レベルでの大問題が全国で起きていたというのに、それ以上の問題である『戦争』という体験を経て、国民の思想は強く強化され、この老人のような人を生み出すようになったのである。
90歳の私の祖母も、ある政治家が許可なく当時の平成天皇に話しかけたニュースを見て、
祖母
と彼を非難した。30年以上『クリスチャン』として教会に通い、宗教問題で私を悩ませるだけ悩ませておいて(それは母だが)、このクリスチャンを名乗る祖母は、まるで自分が『神道の教徒だ』とでも言わんばかりに、過剰なまでの天皇崇拝の姿勢を滲みださせた。
『神道』という天皇を崇拝する日本の考え方は、間違いなく宗教だった。開国した明治の時代に、日本は世界から『宗教の自由』を求められ、こういうやりとりがあった。
外国人
日本人
しかし日本は苦肉の策として『神道は宗教にあらず』という政府の公式見解を出した。そうすれば、キリスト教徒や仏教徒にも天皇崇拝を強要できると考えたのだ。
彼らからすればもちろんこの明治維新の一連の流れは『宗教づくり』として行っていないだろう。しかし、結果的にこうした考え方は後々大きな問題となっていく。これは、『儒教、仏教、神道、アニミズム、御霊信仰』といった独特の精神世界が混じって作り上げられた日本ならではの現象で、本人たちはドイツやイギリスなどの『成功している最前線にいる国』の真似をしただけなのだ。うちの場合、たまたま『守るべき伝統』として神道(天皇が神の子孫である思想)があった。そういうことなのである。
『儒教、仏教、神道、アニミズム、御霊信仰』日本人の心に独特の精神世界が作り上げられていく
とにかく、これによって天皇と国民との距離は更に引き離れた。前述したように、『藩閥』とそうじゃない派閥に差があり、元老と庶民に差がある中で、『天皇と庶民』となると、これはもう天と地の差があったのだ。(天皇>藩閥>元老>庶民)
- 官僚の任命・辞職の権限
- 陸海軍を率いて作戦を指示する総帥権
- 宣戦布告の権利(戦争を開始する権利)
- 条約の締結の権利
天皇はこうした大きな権利が委譲され『天皇大権』を得た。
[新皇居於テ正殿憲法発布式之図
1889年(明治22年)、安達吟光画]
ただ、そこはもちろん計算をした。天皇が権力を持って越権的になれば、今までの歴史を見てもどうせ転落することになるわけだ。徳川一強時代が260年続いた記憶が新しいこの時代の人々も、それは重々承知していた。したがって、そうはいっても天皇が『特権の乱用』ができないよう、そして越権行為に走らないよう、専制的、独裁的な方向に行かないよう、十分対策を練った。
天皇は、あくまでも『憲法の条文に沿ってその権限を行使する』ことが認められ、基本的に政治の指揮を執るのは内閣だ。そうすれば、天皇の専制政治にならないし、また問題があった場合も天皇の件には傷つかない。この『二重権力構造』によって、この国は事実、大きな暴動が起こりにくい国家となっていったのである。
例えば2010年の『アラブの春』。
- ジャスミン革命
- エジプト革命
- リビア内戦
- イエメン騒乱
- アルジェリア騒乱
- モロッコ騒乱
- サウジアラビア騒乱
- ヨルダン騒乱
- レバノン騒乱
- イラク騒乱
- クウェート騒乱
- バーレーン騒乱
- オマーン騒乱
- シリア内戦
実に広範囲に渡ってデモ・暴動・革命が起きた。その理由は、アラブ諸国には多くの独裁国家や専制国家が存在していたからだ。例えばチュニジアに隣接しているアラブ国家であるリビアでは、ムアンマル・アル=カダフィ大佐による独裁政権に対してリビア国民が反旗を翻した。
[ムアンマル・アル=カッザーフィー]
カダフィ大佐は、
- チャド
- ナイジェリア
- エリトリア
などアフリカ人の傭兵を用いて力づくでそれを鎮圧しようとするが、その鎮圧は成功しなかった。カダフィ大佐は拘束時に受けた攻撃により死亡した。当時、ボコボコになって衰弱し、生きているか死んでいるかもわからない状態のカダフィ大佐を掴んで興奮している民衆の姿が、テレビを通して全世界に放映された。
焼身自殺したブアジジが爆発させた中東の『不満エネルギー』!アラブの春は正義だが、その遂行の代償が大きすぎた
そう考えると、この『二重権力構造』は国家の治安維持のためにはなかなかいいアイディアではある。長い日本の歴史の中で、再三再四権力が移っては変わり、独裁的になっては革命が起き、ということを繰り返してきたので、この構造自体は日本の資産であり、その経験がここで役に立ったと言えるだろう。
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