『関東大震災』
第一次世界大戦を利用して『帝国日本』は虎視眈々と野心を燃やし、『大戦景気』がお金を燃やす成金を生んだ
上記の記事の続きだ。1918年11月11日、第一次世界大戦が終わり、1920年1月10日には国際連盟ができて日本は常任理事国になった。例えば『第二次世界大戦』の時には戦勝国側の5大国、
- アメリカ
- ソ連
- イギリス
- フランス
- 中華民国
は安全保障理事会の『常任理事国』となり、『拒否権』という強い権限を持ち、戦争に負けた側の国は制裁を食らった。このように、常任理事国というのは重要な立ち位置。『理事』というのは組織・団体を代表し、事務を管掌する地位にある者の職名であり、『理事長』というのは往々にしてその組織の代表者であることが多い。
その代表国として選ばれたのは以下の4国。
国際連盟の常任理事国
- イギリス
- フランス
- 日本
- イタリア
そして、以下の国は常任理事国参入を強く希望していたが、解散に至るまで実現はなされなかった。
常任理事国に選ばれなかった国々
- 中華民国
- ブラジル
- スペイン共和国
- トルコ
- ベルギー
- ポーランド
ただ、国際連盟自体は言い出しっぺのアメリカが加入しないなど、中途半端なものになってしまい、しかしそれが次の『国際連合』に生かされていくことになる。何事も試行錯誤だ。1500年代にスペイン・ポルトガルから『大航海時代』が始まり、世界が一体化していく前は、『隣国を制圧していく』ような考え方で、世界と触れ合うことはあった。大航海時代でも『植民地の開拓』として支配地を増やしたが、貿易もしながら世界は一つになっていった。
良くか悪くか、世界の形を大きく変えたスペイン・ポルトガルの『大航海時代』の幕開け
その後、時間をかけてその支配に抵抗したり、戦争をしてその後始末として関係をハッキリさせたり、同盟を組んで仲が良くなったり、または仲が良くなくても『結果的に自国の平和が守られる』という理由で同盟を組んだりして世界の国が一つになり、そしてついに人類は『国際連盟』という世界の平和・治安を守る共通組織を発足し、それに属することになった。意味のない争いはあったが、『喧嘩の後の仲直り』のようなもので、戦争とは、
- それまで長い間蓄積してきた祖国への想い
- 相手の力量を軽く見る
という『無知』と『穿った愛国心』から始まった『テスト』、あるいは『摩擦』のようなもので、今よりうんと情報がなく、不気味だった相手に対する『恐怖』を包み隠すかのように、自分たちの民族意識と、信仰してきた神を祀って、その神々に勝負させるという、『無責任』で、『射幸的』で、それでいて『信心深い』人間たちが知らぬ間に『真理』から逸れた、行動だった。
国際連盟の失敗を踏まえ、世界の舵取りを担う『国際連合』が誕生!しかしその裏で『鉄のカーテン』問題が浮上する
さて、日本の『大戦景気』は終わった。戦争があったからこそ需要があり、利益を伸ばしていたところで、利益の減退があったわけだ。ヨーロッパの製品が市場に戻ってきて、日本製品が売れなくなった。更に、
- 立憲政友会の政治が政商や財閥中心の金権政治に見えた
- 原敬が普通選挙法の実現の邪魔をした
といったことが重なり、原敬は東京駅で19歳の中岡昆一に暗殺される(1921年11月4日)。心臓まで短刀を刺された原は即死だったという。その跡を継いだのは同じ政友会の高橋是清(これきよ)だ。
[高橋是清]
その後、1921年に『ワシントン会議(1921年11月12日 – 1922年2月6日)』が行われ、アジアに関する列強の利害関係を調整。
- 山東省における日本の権益放棄
- 各国の主力艦の保有比率
などを軸に決定し、日本は国際的な孤立化を防ぐためには条件をのむしかなかった。だが、『戦勝国』としてこの世界に君臨することができたわけで、世界への滑り出しはまずまずといったところだっただろう。一歩間違えればこの国も植民地化された可能性もあった中、幕府を終わらせて『尊王攘夷』の名のもとに明治維新を成し遂げ、この国は富国強兵して一体化し、強化されたことでこの地位にまで上り詰めた。それは事実だった。
各国の主力艦の保有比率
- イギリス:5
- アメリカ:5
- 日本:3
- フランス:1.67
- イタリア:1.67
高橋是清の後、海軍の加藤友三郎が第21位代目総理大臣となったが、1923年8月24日に病気で死亡。そして第22代目は山本権兵衛が二度目の総理大臣となった。しかし、その直後の1923年9月1日『関東大震災』が発生。ただでさえ大戦景気も終わって不況であり、選挙に不満もあって、総理大臣も暗殺されたり、コロコロ変わったりして不安定なのに、ここでこの天災がくるのは痛すぎた。
東京、横浜の多くが焦土と化し、10万人を超える死者が出た。2011年3月11日の『東日本大震災』の使者を考えたら、その3倍の人々が命を落としてしまったのである。もちろん死者の数で数えるのは当時を生きる人にとって不謹慎だが、こうして歴史的に俯瞰で見ると、この震災がどれほどのものだったかということがわかる。
[日暮里駅(移転前)での8620形蒸気機関車牽引の避難列車。]
記憶に新しい現代の『東日本大震災』でさえあれだけのパニックがあった。それには『原子力発電所』という大きな要素もあったが、あの時被災者の中には、
と言って自分たちの身にあったあまりにも衝撃的な事実と、世間とのギャップに悩んだ人もいた。東日本大震災の映像なら今youtubeで検索をすればいくつも見ることができる。中には人や動物の遺体もギリギリのラインで映し出されているものがあり、あまりにもショッキングな映像のため、ここに張るのはやめておこう。
当時、関東大震災によって日本はこれ以上に苦しんだ。もちろんそれは『規模』の話だ。人が一人事故死する。その事故死と100万人が亡くなる天災とは規模が違うが、人の命の価値は同じだと断言しておく。
そんな震災の直後、
そういうデマが流れた。そして不安になった民間人の中から自警団が結成され、警察官とともに多くの朝鮮人が襲撃され、1000人以上が殺された。朝鮮半島、つまり韓国(大韓帝国)には日本からの独立運動も行われていたし、その話にはある種の信憑性があった。だが実際にはデマだったのである。現在で考えても、フェイクニュースでこれだけの人が殺されたら、世界的な大問題となる。
[デマを流す者に対して警告する警視庁のビラ]
更に、後の昭和天皇が無政府主義者によって狙撃される『虎の門事件』が勃発。総理大臣だけではなく、天皇までもが襲撃される。これだけの混乱を招いた。それが『関東大震災』だった。
下記の記事で『大日本帝国憲法』ができたとき、
天皇は、あくまでも『憲法の条文に沿ってその権限を行使する』ことが認められ、基本的に政治の指揮を執るのは内閣だ。そうすれば、天皇の専制政治にならないし、また問題があった場合も天皇の件には傷つかない。この『二重権力構造』によって、この国は事実、大きな暴動が起こりにくい国家となっていったのである。
と書き、リビアのカダフィ大佐の例を出して比較した。『アラブの春』でカダフィ大佐が捉えられボコボコになって衰弱し、生きているか死んでいるかもわからない状態のカダフィ大佐を掴んで興奮している民衆の姿が、テレビを通して全世界に放映された。
総理大臣が政治を運営し、天皇はその上に立つ『国のシンボル』、『神輿』とすれば天皇の権威は国家の秩序と関係なく保たれる。確かにそれはそうで、それが現在で置き換えても同じことが言えるのだが、しかし当時の混乱は、その天皇でさえも打倒の対象となったのだ。それは、今よりもうんと当時の人々が『国の構造』を理解していたということもあるだろうし、世界的に起きていた『戦争』や植民地を増やす『帝国主義』の発想が真理から逸れていて、それが不安定な精神状態の人々を増やした一因ともなったと言えるだろう。
『大日本帝国憲法』を作って天皇の権威を引き上げよ!伊藤博文が『初代内閣総理大臣』でリードする
山本権兵衛の次に、第23代目総理大臣となったのは清浦奎吾(けいご)だった。官僚出身の元貴族院議員だった清浦は、ほとんどの全閣僚を貴族院から選ぶ。高橋是清の立憲政友会は、
最近の普通選挙を求める世間の声を考えると、次は憲政会が勝利する可能性があるな…
と危惧する。そこで、ライバルの憲政会と連携して、清浦奎吾内閣打倒の『護憲運動』を起こす。それによって、普通選挙権を求める『憲政会に回るはずだった国民の票』を取り込めると考えたのである。しかし、立憲政友会の中の保守派がこれに反対し、『政友本党』を作って、清浦奎吾圭吾内閣に近づく。それぞれの思惑で政治の駆け引きが行われた。
護憲三派
- 立憲政友会(高橋是清)
- 憲政会(加藤高明)
- 革新倶楽部(犬養毅)
は意見が一致した。これらの団体はすべて『普通選挙を求める民衆の声』を利用し、その大きな波の力を使って清浦内閣を打倒しようとする。この『護憲三派』は、清浦内閣が完了や貴族院という特権階級で構成されているという構図を突き、
というような方向で攻撃し、議会を解散させることに成功。衆議院選挙が行われ、多くの票を集めたのは中心となって動いた憲政会の加藤高明だった。普通選挙の実施を公約に掲げて行われ、護憲三派は衆議院選挙で勝利を収め、憲政会総裁である加藤高明内閣を組閣する。彼は三菱に入社後、創業者の岩崎彌太郎の長女と結婚し、財閥の援助を背景に政界に転身した人物だった。こうして1924年6月11日に公約通りに衆議院議員選挙法が改正された(普通選挙法が成立した)。
本格的には1925年からだ。微調整をしながら選挙法を改正し、『満25歳以上の男性に選挙権を与える』普通選挙法が成立。これによって、更に大勢の人が政治に関われるようになった。それはつまり、多くの人の声が中央に届くようになったということである。
普通選挙実現までの道
ただし、まだ女性は選挙に参加できない。まだまだ平等な社会の実現は遠いが、それでも時間をかけて民主主義の光は強くなっていくのである。当初、1.1%しか参加できなかった選挙は、20%ほどまで引きあがり、多くの人々が政治に関われるようになった。同時に『治安維持法』が制定され、頻発していた無政府主義者や社会主義者、あるいは暴動やテロの活動を抑制した。
その後しばらく『政党内閣の時代』があり、『立憲政友会』と『立憲民政党』で、衆議院に多数を占める政党の総裁が交互に政権を担当するという『憲政の常道』といわれる政治のパターンが展開される。1924年から8年間続く『憲政の常道』で、政党政治が日本に定着するかのように見えたが、やがてこれは民衆の支持を失い瓦解することになる。
立憲民政党(憲政党) | 民衆権利の重視 |
立憲政友会 | 地主・財閥・軍等の権力者の重視 |
その他 | 労働者・小作人等を重視 |
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