『ベトナム戦争・学生運動』
バブル経済に支配されなかった識者は、『自衛隊』の在り方に対して正確な意見が言えるか?
上記の記事の続きだ。総理大臣は第61代目、親族には松岡洋右、阿部晋太郎、安倍晋三、岸信介などがいる「政界の団十郎」「早耳の栄作」と言われた、佐藤栄作(1964年11月9日 – 1972年7月7日)になった。彼は1974年に『ノーベル平和賞』を受賞する男だ。日本は戦後、
- ソ連
- 韓国
- 中国
などの近隣諸国と次々と関係を改善。冒頭の記事でソ連や中国については書いたが、韓国に対しても『日韓基本条約(1965年6月22日)』では韓国に総額8億ドルの経済協力を行い、その代わりに韓国は対日請求権を放棄。、1968年にはGNP(国内総生産)でアメリカに次ぐ第2位となり、確実に力をつけていった。『東洋の奇跡』である。もちろんそれらの国々とは完全なる和解ではなかったが、戦争で対立していたときのことを考えると、十分な関係の改善だった。
[アメリカのニクソン大統領と(1972年)]
しかし、この明らかな状況の改善と日本の躍進にアメリカは焦る。市場開放などを求める『日米貿易摩擦』が発生。日米は『友好国』になり、経済的なライバルとなった。1950年代までに盛り返したアメリカは、1960~1970年代になると、様々な問題を通して暗雲が立ち込めていた。
- 1963年:部分的核実験停止条約の締結後から始まった『デタント(緊張緩和)』
- 1969年:終結し敗北した形となった『ベトナム戦争』での出費
- 1971年:ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた『ドル・ショック』
- 1973年:『第一次オイルショック』
スターリンが死去するも、スプートニク・ショックにキューバ革命が勃発!危機を乗り越え『デタント(緊張緩和)』できるか?
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いい動きはデタントくらいで、しかしそれも決してプラスになる動きではない。最低限の処置だ。この時代はリベラリズムの潮流が強く、格差問題や人種問題といった様々な問題の解決に積極的だったが、こうしたアメリカの世界的な立場の低迷によって、保守的な考えを持つ人々が続出。
チェ・ゲバラやカストロが巻き起こした『キューバ革命(1953年7月26日 – 1959年1月1日)』が起こった。キューバは、アメリカの従属国の立場だったが、この革命によってキューバはソ連側に寝返ったのだ。そしてソ連はキューバにもミサイル基地を建設しようとする。当時の大統領ジョン・F・ケネディはそれを阻止しようと、キューバを海上封鎖。ソ連軍はキューバに入港できない状態が作られた。
[ゲバラ(左)とカストロ(右)]
1961年、東ドイツは西ベルリンへの流出を防ぐために壁を作った。『ベルリンの壁』である。これも東西冷戦の象徴となった。スターリン批判の結果、それを皮切りに動きだした支配下の人間の暴走を、力づくで鎮圧したソ連。結局スターリンの後任フルシチョフも、彼と同じように恐怖政治で支配下を治めようとしてしまった。
[東ドイツ当局により建設中のベルリンの壁。(1961年11月20日)]
スターリンが死去するも、スプートニク・ショックにキューバ革命が勃発!危機を乗り越え『デタント(緊張緩和)』できるか?
どれも根幹にあるのはソ連との冷戦問題だ。つまり、
- 広島・長崎の原爆投下
- 朝鮮分裂
- キューバ革命
- ベルリンの壁
- ベトナム戦争
ここまでにあったこれらの世界的な大事件は、すべてアメリカとソ連の『冷戦』が原因なのである。また、『ベトナム戦争(1955年11月 – 1975年4月30日)』の影響は大きかった。これは国際的な影響力を下げる『失態』に近い行動だった。アメリカ軍は猛毒のダイオキシンを含む『枯葉剤』を散布し、密林の草木を枯らし、ソ連側のアドバンテージ(有利性)をはく奪しようとした。
北ベトナム | ソ連、中国 |
南ベトナム | アメリカ |
しかし、この映像を客観的に見たとき、印象が悪かった。テレビが普及したこの頃、この光景は世界中に流されることになった。そして、アメリカ軍への印象が悪くなり、世界中で反戦運動が起きた。つまり、それまではテレビが普及しておらず、
- 植民地
- 戦場
といった舞台がどのような場所になっているかを、戦勝国側は理解できなかったのだが、テレビのおかげでそれがわかるようになり、自分たちが正義だと信じて掲げてきたことに首を傾げ始めたのだ。だから1960~1970年代のアメリカを描いた映画では、その時代背景がよくわかるようにか、必ずと言っていいほど映画内のテレビでは、ベトナム戦争についての報道が映し出されている。
例えば最近の記憶を思い出すなら2例ある。1972年6月17日にワシントンD.C.の民主党本部で起きた盗聴侵入事件に始まったアメリカの政治スキャンダル『ウォーターゲート事件』の裏で活躍した、FBIボスの右腕で副長官マーク・フェルトを描いた作品『ザ・シークレットマン』。
1969年にハリウッド女優シャロン・テートがカルト集団チャールズ・マンソン・ファミリーに殺害された事件を背景に、ハリウッド映画界を描いた作品『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』。
2つとも、テレビか映画内で、ベトナム戦争について触れている。多くのアメリカ人は、それを聞いて映画の時代背景がよくわかるのだろう。まあ『ウォーターゲート事件』はそれだけで時代背景がわかるし、アメリカ人だけというわけでもないが、世界的に見たとき、このベトナム戦争というのは一つの時間軸の目安になっているのである。そして、『テレビをつければベトナム戦争についてやっている』という状況が、アメリカにあったのだろう。
また、沖縄基地の問題もあった。沖縄基地はベトナム戦争の後方基地であり、頻繁に爆撃機の離発着が行われ、あるいは墜落したり、アメリカ兵士の事故や犯罪が増加したりと、現在の沖縄に通じるような問題が当時は全盛期だった。今、日本で米軍基地と言えば沖縄という印象があるが、全国に130か所もある基地の中でここが目立つのは、それだけこの場所が最も活発に動いていて、その分トラブルも多く、そしてそれに反発する声も大きいということなのである。また、在日米軍施設の約7割が沖縄県に存在しているという現状があるからだ。
在日米軍施設・区域の都道府県割合
山口県 | 3.29% |
東京都 | 5.01% |
神奈川県 | 5.60% |
青森県 | 9.02% |
沖縄県 | 70.28% |
その他 | 6.80% |
沖縄県民は『祖国復帰運動』を起こし、小笠原諸島はこのタイミングで返還された。この時、佐藤栄作は『核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず、というルールを適用する』という、『非核三原則』を打ち出した。この行動と、アジアの平和への貢献が評価され、彼は『ノーベル平和賞』を受賞するのである。
アメリカとしてはここに『核兵器のある米軍基地』を置き、この近辺のエリアを威圧し、抑止力としたかったが、結果的にはこれを適用。『核抜き・本土並み』の合意のもと『沖縄返還協定』への調印がなされた。1971年(昭和46年)6月17日に調印、1972年(昭和47年)5月15日に発効し、沖縄の施政権がアメリカから日本に返還され、沖縄県が復活した。
第二次世界大戦後に占領されたエリア
アメリカ | 沖縄、奄美、小笠原 |
ソ連 | 千島列島 |
返還された年
奄美群島 | 1953年 |
小笠原諸島 | 1968年 |
沖縄 | 1972年 |
この頃、『学生運動』が盛んに行われた。これもその『ベトナム戦争』や、安保制定、大学の在り方等についての抗議運動だった。だから先ほどのアメリカ映画のことで言うなら、ちょうどこの1960~1970年代の時代の日本を描写するときは、往々にしてこの『学生運動』が描かれることが多い。例えば、下記の映画はスタジオジブリ、宮崎駿の息子の宮崎吾郎監督の『コクリコ坂から』だ。これも作中で学生運動が描かれている。
スタジオジブリの予告動画は期間限定のため、この英語版を見つけたが、これが海外の正規なのかは不明。
例えば『東大安田講堂事件』は、全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が1969年1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件である。機動隊と学生が衝突し、多くの負傷者を出した。
また、左翼がこういう運動をするなら右翼にも動きはあった。1970年(昭和45年)11月25日、『楯の会』隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁した三島由紀夫は、バルコニーでクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。この一件は社会に大きな衝撃を与え、既存の右翼よりも民族主義的な『新右翼』が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた。
[バルコニーで演説(1970年11月25日、市ヶ谷駐屯地にて)]
これはテレビで放送され、世界中の人々に大きな影響を与えた。ドイツのディ・ヴェルトは、
ディ・ヴェルト
フランスのレクスプレス、ル・モンドは、
レクスプレス
ル・モンド
オーストラリアのフィナンシャル・レビューは、
「三島の死を、日本に多い超国家主義や暴力団と結びつけるのは、単に三島に対する誤解のみならず、近代日本に対する誤解でもある」
として、
「伝統的文化と近代社会の間にある構造的な相剋の中に、真の美を追求し、死にまで至った彼の悲劇は、彼自身の作品のように完璧な域にまで構成されている」
と論じた。ワシントンからは、
「軍国主義復活の恐れ」
ロンドンからは
「右翼を刺激することが心配」
パリからは
「知名人の行動に驚き」
といった打電があった。
[三島31歳。石原慎太郎23歳と(1956年2月、銀座6丁目の文藝春秋ビル屋上にて)]
ヘンリー・ミラーは、
ヘンリー・ミラー
と問いかけ、以下のように語った。
[三島30歳(1955年秋、自宅の庭にて)]
三島由紀夫は東大に殴り込み、そこにいる生徒らと討論を交わし、体は筋骨隆々で、ボディビルもボクシングもやる、文武両道のエネルギッシュな人間だた。彼のやったことは真っ二つに意見が割れるが、心底で感じているのは彼というエネルギーの脅威に対する畏怖と称賛の念である。
とんでもない人間がいたものだな…。
なんにせよ、そう思わせることだけには成功したのであった。
彼のこの言葉は、思っているより深い。
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