仏教の開祖 釈迦(画像)
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内省
『責任転嫁』とは、(せきにんてんか)と読む。転換(てんかん)ではない。同じような言葉で、聴きなれない言葉かもしれないが、転嫁とは、『人に押し付ける』という意味だ。つまり責任転嫁とは、人に責任を押し付ける。目の前で起きていることは、相手の責任だ、となすりつける。そういう時は往々にして相手が悪いのだろう。見るからに悪いのだ。
例えば、相手が人を殺してしまった。どんなことをしても人を殺すことは許されない、という真理から考えても、相手が悪いのだろう。だが、『絶対』とは言い切れない。
例えば目の前で、最愛の自分の子供が、いやここでは、人の子ということにしよう。 まだ何も分別がつかない清廉潔白で純粋無垢な子供が、今、目の前でまさに理不尽な暴漢に殴打され、それによって意識を失い、更にもう二発目を叩きつけて暴行しようという現実に直面したとき、それを見てしまった勇気ある人間がその暴漢に飛び掛かり、怒りに身を任せて、意識を失った子供の分まで、
(今、何をしようとした!)
という激昂の中、暴漢を思い切り殴りつけた。相手の力と自分の力がどれくらいの差があるのかわからない。自分の力でどれぐらい殴打すれば人が死ぬのかも知らない。とにかく無我夢中で、自分の出来る限りの強い力を振り絞り、相手の頭を殴りつける。何とか相手は気を失い、子供を助けてその場から去ることが出来た。
グッドニュースとバッドニュースが入ってきた。バッドニュースは、打ち所が悪く、暴漢が死んだという知らせを受けたこと。そしてグッドニュースは、子供の命が助かったということ。
命を取り留めた子供の親は泣き叫び、救世主に深々と頭を下げて、言った。
母親
母親
だが、その人間は、人を殺したのだ。さて、ここからが本題である。
目の前に、(自分の人生を生きて磨いてきた規範意識で考えても)、どう考えても悪いことをした人間がいる。例えば、『人殺し』がいるのだ。だから差別した。侮辱したし、軽蔑した。だって人殺しだし、どう考えても悪いし、実は心底では脅威で、怖いからである。
相手は不気味にも自己弁護をしない。ただただ、言われるがまま、もう数年が経っただろうか。どうやってもその人と良い関係になれない。心底にある相手に対する不信感が、消えないのだ。
(だってあいつが悪いんだろ)
しかし、本当にそうだろうか。
参照文献
法句経253。