仏教の開祖 釈迦(画像)
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『カルマの法則』というのがあるが、これを語るためにはしっかりとした勉強必要だ。真実が歪曲してしまうからである。
ただ、身構える必要はない。おそらく誰もが、アニメか何かで見れば一発で意味を理解できるのだが、どうもそこには『宗教』だとか、『洗脳』だとか、『イカサマ』っぽい何か、抵抗感がまず真実の把握の邪魔をし、そしてその斜に構えた態度が、実態を歪曲させ、その『アニメ』に辿り着かない。絶対に難しく考えてはならない。
『カルマ』というのは、漢字で『業』と書き、『因果応報』という言葉の意味に深く関係する言葉である。
前世あるいは過去の善悪の行為が因となり、その報いとして現在に善悪の結果がもたらされること。
まあ確かに、『自業自得』という言葉があり、その中に『業』という言葉が入っていることからもわかるはずだが、自分のやったことの責任は、自分で取らなければならないことは、強く人間の人生にも根付いていることである。それについての異論はない。
みずから行なった善悪の行為によって,本人自身がその報いを受けること。
しかし、『前世』というのはなんだろうか。まず、その概念を出してしまっただけで、ちょっと『宗教』っぽい。私は、『イカサマ』は嫌い。『エセ』も嫌い。そして仏教で『カルマの法則』を強く説いていて、『因果応報』も『自業自得』も仏教から出てきた言葉であり、それを信用している多くの人間がいるのを見て、無知時代の私がまずそれについて抱く感想はこうだ
(全員イカサマ野郎だな)
何度も言うが、私は『エセ(似ているが本物ではない)』が大嫌いなのである。もし、『前世』や、『先祖』の話をするのであれば、全員とは言わない。ほとんどの人間が、『人殺し』の子孫である。日本だけで考えても、『いつでも人を殺せる道具』を持ち歩き、闘いでは相手の首を斬って持ち帰ったのだ。
信長の『髑髏杯』が本当なら、それに恋する現代の歴女や、国民的な大河ドラマで取り上げるNHKは、異常者を奉る行為をしていることになるわけだが、どうも『自分には無関係の世界』だと思っているらしい。だが、『前世』や『先祖』の話をするなら、そして『カルマ』の話をするなら、全員人殺しのカルマを背負って生きていくべきだろう。
なぜそうして生きていないのだ。なぜ特定の人物だけが奴隷のような劣悪な環境を強いられたりしていて、自分は無関係だという顔をして堂々と越権行為をする人物が存在しているのだ。
昔、『敵討ち』が許されていた時代があった。『敵討ちと認められなければ殺人として罰せられた』というぐらいだったのだ。つまり、敵討ちであれば殺人が認められていたのだ。『不倫』が行われた場合も、1600年~1700年頃、その相手を殺してもいいという法律があった。
原始時代はどうだ。法体制が整っていないときはどうだ。戦争時代は、戦国時代は、打ち首は、切腹は、斬首刑は、
我々の『先祖』は、本当に『人殺し』ではないのだろうか?『人』以外は?動物は殺していいのか?道路を埋め立てるとき、あるいは無意識に踏みつぶす昆虫の命は?人間が生きるために、他の生命を殺生する。そういうことについての『因果応報』がないのであれば、こんなにも人間本位で、馬鹿げた法則はない。
そして私はこう答える。
『カルマの法則ってのがあって、因果応報ってのがあって、前世や過去の自分の血が、命がしたこと、あるいは受けたことは『連鎖』され、その呪縛からは逃れられないというのであば、カルマの則ってのは『イカサマ』だ。
自分は無関係で、清廉潔白だと思って生きている人間の中にも、本当はその『血』は流れているはずなんだからな。
私は『カルマ』という言葉の意味を安易に考えたとき、まず最初に、そう考えてしまう人間である。そういう懐疑的な人間は、私だけではないのではないだろうか。
だが、ある映画を観て私の感想は変わったのだ。それは、手塚治虫の『ブッダ』である。
いや、正確には『変わった』のではない。『知った』のである。ブッダが言った『カルマ』というのは、そしてそこから生まれた『カルマの法則』という概念は、決して
『人殺しの子孫は、永久に人殺しの業を背負っていかなければならない』
という意味ではなかったのだ。『逆』だった。
ブッダがまだ『シッダールタ(釈迦一族の王子)』の名前で王子として生きているとき、目の前でまさにその『負の連鎖』によって尊い命が奪われていくのを目の当たりにした。
戦、行き倒れ、病に飢え。想像を絶する悲しみと、やり場の無い嘆き、怒り、苦しみの葛藤を抱えながら、釈迦は旅に出た。そこで生まれたのが『ブッダ(悟りを開いた者)』だ。
ブッダはその教えの中で、全体的にこのようなことを言っている。
『負』は、連鎖してはならない。それを断ち切ることが、この世の真理なのである。
相田みつをもこう言っている。
人間は完璧な生き物ではない。失敗はつきものだ。だからそれについて、いつまでもくよくよする必要はないのだ。負の連鎖は断ち切れる。それこそが『カルマの法則』の真髄なのだ。だが、だからといって『反省すればなにをやってもいいんだ』と思い違いをしてもいけない。
アインシュタインはこう言っている。
負は断ち切れる。だが、それは過去を無きものにする(隠蔽する)ということではない。『アウシュビッツ強制収容所』や『原爆ドーム』が『負の世界遺産』として守られているように、
人は、自分たちの行いを反省しながら、善きことも悪しきこともそれを歴史に刻み、過ちを繰り返さないこと、負の連鎖を断ち切ること、より良い世界を目指すこと、そういうことがこの人生で、『命のリレー』で問われていることから目を逸らしてはならない。
もし我々がアインシュタインの言うように、『第三次世界大戦』という愚かな道筋を歩いてしまったとしよう。何もかもが終わり、残す荒廃したこの地球という惑星で、奇跡的に生き残った男女二人の小さな子供が、そこから『人間』をやり直すことになったとしよう。
その二人に、『愚かな我々人間のカルマ』がのしかかるのか?
いや、『負は断ち切れる』。
だが彼らは『負の遺産』を忘れてはならない。なぜなら、そこから気が遠くなるほどの時間をかけて元通りになった人間社会は、『負の遺産』が無いと、また同じ過ちを繰り返してしまうからである。
『カルマの法則』とは、『前世や過去の自分の血が、命がしたこと、あるいは受けたことは『連鎖』され、その呪縛からは逃れられない』という根拠のない妄想ではない。『負の真実や歴史を隠蔽して、あるいは見て見ぬフリをして、気楽に生きていこう』という無責任な発想から生まれたのでもない。
むしろ、『直視』するのだ。そして、『遺す』のだ。人間から、人生から『逃げ』ない。『下』も向かない。
負は、断ち切ろうと思えば断ち切れる。だが、断ち切ろうと思わなければ、いつまで経っても断ち切れない。自分の手にかかっているのだ。自分の意思に全てがゆだねられているのだ。これこそが、負の連鎖を断ち切る(同じ過ちを繰り返さない)為の、ブッダらが見極めた、叡智なのである。
『ロウソクについていた火が、消えた。だから新しく、つけた。だが、その火がどうしてさっきまでの火と同じものだと言えよう。』
『天上天下唯我独尊』なのだ(我々は、尊く、『かけがえ』のない、たった一度の人生を生きているのだ)。
法句経60。