仏教の開祖 釈迦(画像)
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仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家であり、ニーチェ、フロイト、アインシュタイン、ユング、トルストイ等、様々な偉人に影響を与えたショーペン・ハウエルのこの言葉。正直、これが今回のブッダのこの言葉が意味するところの的の『ど真ん中』を射ている。
ブッダは言う。
『欲しい欲しいと泣き叫ぶ心の寂しさを静めること』 をこそ求めるならば、あなたは私の教えを守る生徒に相応しい。
『ブッダの教えを守る者』。それこそが『仏教徒』だ。さて、私は仏教徒ではない。だがこの教えに心底から共感する。
私は宗教に散々悩まされた人間だから、これからも宗教はやらない。だが、こういう私のような懐疑的で傲慢な人間が、宗教に頼らずに、崩れずに、この世を逞しく生きていくためには、『真理』を追究するしかなかった。他人でもない。家族でもない。宗教でもない、絶対に崩れないものが私には必要だったからだ。
そしてその道の上で、奇しくも私は、私の人生の重荷となって苦しめた、『宗教』に出会ったのだ。だが、『エセ(似ているが本物ではない)宗教』ではない。『真の宗教』だ。他人や環境に教えられたのではない。自分の意志で、たどり着いた場所に、ブッダやキリストや、孔子やソクラテスがいたのだ。
私は確信した。私のような人間でも、信仰に敬虔な人間でも、 辿り着く場所が同じだという事実に直面して、一見すると混沌として無秩序な、虚しくも儚いこの世に、この人生に、確かに光る、一本の道があるということを。
『それ』を教えて、決してぶれなかったのが、ブッダやキリストたちであるということ。そして、『それ』の名を、『真理』と呼び、ときに『神』と呼ぶのだと。それを教わり、重んじることこそ、『宗教』なのだと。
宗教という言葉は、正直廃れすぎた。ある、宗教についてわかりやすく紐解いた本にはこうある。
『宗教にはテロリズムのイメージがある。宗教とテロは関係性が強いのか。答は、否である。実際は、テロリストが宗教を口実にしているだけなのだ。』
私も悩まされた。苦しめられた。『強要』されたからだ。苦しみから解放されるものこそ、宗教じゃないのか。そういう違和感や懐疑心や反抗心が、常に心に渦巻いていた。
そんな私だからこそ言える。こんな世の中だからこそ言える。なによりもまず、やるべきことなのは、『真の教育』が何であるかということを、親を含めた全ての教育者が理解すること。それを絶対的根幹に置いた上で、そのうえで初めて、多様性のある各々の個性と人生を謳歌するべきなのだ。
求めるものを間違えてはならない。それを一歩でも間違えたら、大きな代償を払い、 そして大きく方向転換をしなければ決して乗り越えられないような、 大きな試練の壁にぶつかるだろう。生徒が、そういう道を歩くことについて何も思わない人間は、 『教育者』を語る資格はない。
もしこのことについて『大変で、難しくて、困難で、かったるくて、抑うつ的』であると思った人は、次の言葉を見ても何も感じない人なのかもしれない。
by御木徳近
だとしたらもう少し『その方向』を突き進むといい。きっとすぐに『人の生きる道』から道を踏み外し、取り返しのつかない後悔と自責の念に駆られる日が訪れるだろう。それが塀の中なのか病院のベッドなのか、あるいは最愛の人が去った後の部屋なのかは運命が決める。その時に気づくだろう。『真理』の重さを。『教育』の尊さを。
『人間』とは、『人の道』の上を歩く者に対して名づけ、 敬意を表すべく、称号なのである。『人生』とは、その道がどんな道であるかを常に葛藤し、思慮深く検討した上で、『自分にしか履けない靴』で歩いていく過程(道筋)なのではないだろうか。
法句経186,187。